日本人宇宙飛行士として通算5回の宇宙飛行を達成した若田光一さん。〝日本人初〟の数多くのミッションを成し遂げ、現役の宇宙飛行士としての活動期間は世界最長の31年を超える(2023年現在)。宇宙船という極限の閉鎖環境でコマンダー(船長)の経験を持つ若田さんに、決断力とリーダーシップについて聞いた。
飛行機のエンジニアから宇宙飛行士へ転身
いつも宇宙にいる。そういうイメージすらある宇宙飛行士の若田光一さんは、つい最近も宇宙に飛んだ。2022年10月から23年3月まで国際宇宙ステーション(ISS)に155日間滞在し、自身としては初の船外活動で、新型太陽電池アレイ設置用の架台の取り付け作業を行った。無重力空間の中、想定外のトラブルに対処しながらも、国を、世界を代表するミッションを次々とこなす。強靭(きょうじん)な精神力と技術力、高度な知識量は想像の域をはるかに超えるが、その中でも宇宙に飛び立てる人材はわずか一握り。その狭き門を若田さんは5回もくぐり抜けてきた。
そもそも若田さんが宇宙に憧れを持ったのは5歳の時。アポロ11号の月面着陸をテレビで見て衝撃を受けたのがきっかけだ。だが、当時の日本はまだ国策として有人宇宙飛行を行っておらず、実質、宇宙飛行士になれる道はなかった。若田さんは夢を宇宙船から現実路線の飛行機に軌道修正し、大学・大学院で航空工学を学ぶと、日本航空のエンジニアの職に就いた。 「目標に向かって努力して得られた職業に大満足でした」と若田さんは振り返る。だが、ある日、通勤中の駅の売店で買った新聞の記事を読んで人生が一変する。目に飛び込んできたのは、NASDA(現・JAXA)の宇宙飛行士候補者募集記事。5歳の時の夢が一気によみがえった。 「毛利衛さんら、先輩の日本人宇宙飛行士は、宇宙で実験をすることを目的に選抜されていました。1991年には日本で初めてスペースシャトルのミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)を募集したのです。技術者として宇宙に行ける。遠かった夢が、現実味を帯びた目標に変わった瞬間でした」
そして若田さんは迷わず動いた。
リーダーもフォロワーもできる「係長」に徹する
「まさか選抜されるとは思いませんでしたけれどね」と笑うが、1992年4月に見事選抜されてからの若田さんの活躍は目覚ましい。米国航空宇宙局(NASA)の厳しいさまざまな訓練を経て、93年にスペースシャトルのミッションスペシャリスト(MS)に認定されると、その3年後の96年1月には日本人初のMSとして宇宙への初フライトを果たす。2000年にISSの組み立てに携わり、09年には日本人初のISS長期滞在ミッションに参画する。13年にはISSに188日間滞在中、後半約2カ月をISSコマンダー(船長)という大役を務めるなど、日本人初の偉業を次々とこなした。
特に日本にとっての悲願であるコマンダーは、生死と隣り合わせの閉鎖環境で、国や言語、文化の異なるクルーと、遠く離れた地上管制局チームとの調整役となる。プレッシャーは並大抵ではない。 「ミッションは全てチームプレーで行われるため、いかにチームスキルを最大限発揮できるかが問われます。そのために宇宙飛行士は、地上でさまざまな訓練を受けるのですが、中でも厳寒の冬山での野外リーダーシップ訓練では組織力と自己管理能力を鍛えられました。マイナス30度の極限状態で人の本性がさらけ出される中、6人全員が常にチームの課題と目標を共有し、毎日リーダー役を交代し、さまざまな役割を経験させ、チームとしての総合力を創出するための資質を高めていきます。企業においても、誰もがリーダーになるための機会を与えることで組織力がついていくと思います。人は教育や訓練でいくらでも変われますし、私も生まれつきのリーダータイプではありません。私がこれまで出会った優れたリーダーでも、天性のリーダーという方は少ないと思います」
宇宙飛行士は、健康管理や身の回りの整理整頓、感情のコントロールなどの自己管理能力も重要視される。加えてコマンダーには安定したリーダーシップを発揮できることは必須だが、リーダーでないチーム全員が、「状況に応じて」リーダーシップを取れることと、受動的にリーダーに従うだけではなく、リーダーを積極的に支える〝アクティブ・フォロワー・シップ〟を持ち合わせることが求められると若田さんは言う。「例えば実験や船外活動など、担当者があらかじめ決まっている作業や、あるクルーが得意分野とするミッションなら担当者のリーダーシップを信頼して任せ、コマンダーが担当者を支援する側になることで、チームとしての総合力のアップにつながります」
クルー全員の安全確保、ISS全体の状況把握、重要な方針決定のための地上管制局との連携など、コマンダーとしての任務は多い。それを踏まえた上で、若田さんは「コマンダーはプロジェクトマネージャーではなく、クルーチームの係長」と言い切る。
「和」のリーダーシップで「We」を維持し続ける
若田さんは、クルー一人一人のバックグラウンドや目標を理解し、前例よりもその時のクルー全体の士気の状況や気持ちを尊重して地上管制局に掛け合う。また、クルーが喜びそうな宇宙日本食を地球から持ってきて振る舞ったり、誕生日やクリスマスをみんなで祝ったり、円滑なコミュニケーションで心理的な余裕が生まれるように意識したという。 「地上管制局の皆さんも含めて一つのチーム。宇宙に飛び立つ前は〝We〟ですが、地上管制局は世界各国にあり通常は音声通信のみ。宇宙滞在期間が長くなってくると宇宙にいる〝We〟と地上にいる〝They〟の関係性になりがちです。そうならないように、仕事だけではなく、プライベート面でも軌道上と地上のチームの仲間を含め、常に相手を思いやる言動で信頼維持に努めました」
宇宙ステーションは究極のテレワーク。だからこそコミュニケーションが重要であると若田さんは説く。特に気を付けたのは相手の気持ちを「察する」だけではなく、きちんと「口にする」こと。忌憚(きたん)なく意見を出し合い、意思表示を明確にして最善の解を導き出す。若田さんの〝和〟を重んじる調整力が、日本人のリーダー像として諸外国から高く評価されていった。 「日本の有人宇宙飛行の歴史は、毛利さんが1992年にスペースシャトルに搭乗したことに始まり、2024年で32年を迎えます。私がMSとしてフライトしたことで科学者から技術者による日本人の宇宙飛行の道が開け、その後もISSを通じて宇宙開発における日本の存在は欠かせないという各国からの信頼が築かれていきました。日本の有人宇宙活動の黎明(れいめい)期から飛躍の時代に仕事をさせてもらった経験を、次の世代へ伝えていくことも私の役割です」
ISSは2030年まで運用延長が決定し、30年以降は政府主導から民間主導の活用が想定される。また、米国主導の国際協力による月・火星探査「アルテミス計画」において、日本人宇宙飛行士の月面着陸も確実な情勢だ。JAXAとトヨタ自動車共同の、月面を走る有人与圧ローバの研究開発も進んでいる。 「月を周回する有人宇宙拠点『ゲートウェイ』でも、環境制御・生命維持機能や物資輸送など、技術面で日本が担う役割は大きく、日本の有人宇宙技術への高い信頼があってこそ、日本人宇宙飛行士の活躍の可能性が広がります。日本人による月着陸を実現し、ISSに続く地球低軌道での有人宇宙を進めるという明確な目標を持ち、そして将来種子島からの有人宇宙船を打ち上げるという夢を実現できるよう、現役宇宙飛行士としてこれからも尽力していきたいと思います」
若田さんの飽くなき情熱は、これからも宇宙に注がれる。
若田 光一(わかた・こういち)
JAXA宇宙飛行士
1963年埼玉県生まれ。89年九州大学大学院工学研究科修士課程修了後、日本航空に入社。92年宇宙開発事業団(現JAXA)の宇宙飛行士候補者に選ばれ、96年スペースシャトルに搭乗。2000年に日本人宇宙飛行士初の国際宇宙ステーション(ISS)の建設に参加。09年ISS長期滞在、10年NASA宇宙飛行士室ISS運用部門チーフを経て、13年にはISSコマンダー(船長)を務める。宇宙滞在時間累計504日18時間35分で日本人最長。活動期間31年超と世界最長を更新。著書は『一瞬で判断する力』(日本実業出版社)ほか多数
写真・後藤さくら
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