長野、ソルトレークシティー、トリノ、バンクーバーと冬季オリンピック4大会に日本代表として連続出場した皆川賢太郎さん。現役のアルペンスキーヤー時代から経営者としての顔を持ち、引退後はスキー界にとどまらず、ウインターマーケットの発展に尽力している。日本の雪質を世界に誇れる〝資源〟として生かし、冷え込む冬季産業の再生に情熱を注ぐ。
ライバルは海外にいるジュニア時代から照準は世界
玄関を開けると、そこは銀世界。苗場スキー場(新潟県)近くで生まれ育った、元アルペンスキーヤーの皆川賢太郎さんは、遊びでサッカーや野球をするようにスキーに夢中になった。始めたのはわずか3歳。小学2年生の頃には、アルペンスキーで早くも地元の新聞社に取材されるほどに頭角を現した。
時代や環境も背中を押した。拠点の苗場スキー場は、1973年に日本で初めてアルペンスキーのワールドカップが開催され、以来、数々の有名選手が訪れ、地元のスキースクールには、元オリンピアンのアルペンスキーヤー・柏木正義さんが指導に当たった。同スクールで皆川さんは実力をつけ、向かうところ敵なし。だが、決して天狗(てんぐ)にはならなかったという。その理由は、小学5年生の時に行った、オーストリアのサマースクールにある。 「スクールには同世代の海外の子たちも参加していて、その中に2006年のトリノオリンピックの表彰台を争った2人もいました」
実力の差を見せつけられた経験から、国内でどんな好成績を出しても「鼻が高くなることはなかった」と笑う。世界ジュニア選手権で活躍し、17歳で日本のトップチームに選抜された皆川さん。1998年、21歳で初出場した長野オリンピックを皮切りに、ソルトレークシティー、トリノ、バンクーバーと12年間4大会連続出場という快挙を果たした。中でも印象深いのは、2006年のトリノオリンピックだと即答する。 「4回出場して、ゴールまで滑りきれたのはトリノだけ。納得のいく滑りができました」
ベストスコアで4位入賞、1位との差は0・03秒という僅差。悔しさよりも達成感が勝ったそうで、名レースを語る表情は朗らかだ。
20代前半でアスリートと経営者の二足の草鞋(わらじ)を履く
日本代表としての重圧、度重なるけがとも戦い続けた現役生活に、皆川さんがピリオドを打ったのは14年。翌年から全日本スキー連盟の理事に就任し、17~20年には同連盟強化部門トップとなる競技本部長を務めた。現役アスリートらの物理的、精神的な支えとなると同時に、連盟の財務バランスを見直し、増収を図った。助成金や補助金に頼らない連盟の体制づくりにも奔走した。
現役時代とは違った才覚を発揮する皆川さん。実は競技人生と並行し、早い段階からビジネススキルを磨いていた。きっかけをつくったのは、苗場スキー場を国内屈指のスキーリゾートに押し上げた、苗場プリンスホテル(西武鉄道グループ)の元オーナー、堤義明さんだ。学生時代から期待をかけられていたそうだが、ある日、苗場で堤さんと、「ピザーラ」の創業で知られるフォーシーズの淺野秀則さん(現取締役兼グループ代表)と会った際、思ってもみない〝レール〟が突然敷かれた。堤さんの発案で、皆川さんが淺野さんのチェーン店の一つを経営することになったのだ。 「スポーツばかりやってちゃダメだからと、その場であっという間に決まって、苗場プリンスホテルのフードコートにある、どんぶり屋を経営することになりました」
アルバイトではなく、いきなり経営者。賃借対照表や決算書が読めないどころか、海外遠征が多く、店に目は行き届かない。 「さまざまなトラブルやミス、人にだまされたり、足元を見られたりして大損したこともありました。それでも、冬には繁盛させて黒字にするなど、当時の経験から多くのことを学びました」
20代半ば、02年のソルトレークシティーオリンピック出場時には、酸いも甘いもかみ分けた経営者になっていた皆川さん。その頃から、個人の目標は世界大会での優勝、経営者としてはスキーマーケットの再生を掲げていたという。
半強制的に敷かれた経営者のレールだが、皆川さんは見切りをつけずに走り続けた。なぜか。 「単純に興味があったのもそうですが、スキーを始めて20数年は、そのまま国内のスキーマーケット衰退の20年と重なります。スキー人口は、ピーク時の3分の1の約700万人になるものの、世界には地域の文化・産業として根付いている所がたくさんある。僕が日本代表になれたのも、成長できる環境や市場、人との出会いがあったからこそ。今度は自分が冬季産業を支え、貢献する番だと強く思いました」
日本の雪は世界トップレベル 冬季産業に勝機あり
そうした思いを胸に、21年6月に立ち上げたのが「冬季産業再生機構」だ。「SAVE THE SNOW」をコンセプトに、環境問題の調査・研究、冬季産業の人材育成、雪資源の保全を目的に地域活性化に取り組んでいる。 「スキーブームや法律の緩和で、80年代後半から90年代にかけて国内に700カ所以上のスキー場ができました。現状、人口約1億2000万人の国には多すぎる数ですし、実際機能しているのは400カ所以下です。日本の雪は世界的にも良質で、インバウンド需要が高い。内需から外需へ、デフレからインフレへ切り替えた、冬季産業の再生は実現可能です」
実家のペンション経営を引き継ぎ、HEIDIの代表取締役社長として地元・苗場で飲食店や宿泊施設など多角経営を展開。21年11月には岩手ホテルアンドリゾートの顧問・Resort事業統括本部統括に就いて、岩手県の安比高原一帯のリゾート開発・運営に着手している。 「スキー場やホテルの経費を見直しただけで、初年度から黒字化できました。掃除を徹底し、宣伝・広告費は自ら広告塔になるなど、お金をかけなくてもできることはたくさんあります。リゾート再生は長期的なマスタープランを描くことが大切ですが、これはアスリートが数年先の大会に向けて今何をすべきか、逆算して考え、行動計画を立てるのと似ています。僕が取り組んでいる再生事業がロールモデルになれば、選手たちのセカンドキャリアにもなり得ます」
3年かけてマスタープランの基盤を固め、今期、いよいよ安比高原スキー場のゴンドラの架け替え工事ができると目を輝かせる。 「ゴンドラはスキー場のインフラ。電車の駅ができてまちが発展するように、ゴンドラの刷新によって集客が大きく変わります。国策として25年までに国内旅行消費額を22兆円、30年までにインバウンド数6000万人達成を目指すとしています。勝機は十分あります」
実業家に転身しても、日本の雪山に熱い思いを注ぎ続ける。
皆川 賢太郎(みながわ・けんたろう)
元アルペンスキー日本代表
1977年新潟県生まれ。日本体育大学体育学部体育学科卒業。98年、2002年、06年、10年とオリンピック4大会連続日本代表として出場。12〜13年シーズンFar East Cup総合優勝を果たし、14年に現役を引退。15年に全日本スキー連盟常務理事に、17~20年に同連盟の競技本部長として指揮を執った。21年一般財団法人冬季産業再生機構を設立し、代表理事・会長を務める。岩手県・安比高原スキー場や新潟県・苗場スキー場のコンサルティングを手掛ける。株式会社HEIDI代表取締役社長
写真・後藤さくら