コロナ禍が去っても、わが国の個人消費はなかなか盛り上がらない。その背景に、賃金の上昇から物価上昇分を引いた実質ベースの賃金率が、安定的にプラスにならないことがある。春闘などにより給料は増えるのだが、物価がそれ以上に上がる。そのため生活実感が改善せず、節約志向が緩みにくい状況が続いている。
私たちが肌で感じる物価の上昇と、消費者物価指数が示す物価の上がり方に乖離(かいり)が生じていることも重要だ。私たちがスーパーに行って、毎日買う食料品や日用品はかなり上がっている。その一方、消費者物価指数を見るとそれほど大きく上がっていない。肌感覚と数字が一致しない。総務省の小売物価統計調査によると、今年2月、東京都区部のコシヒカリ(5㎏当たり)の価格は平均で4363円、前年同月の2441円から1・8倍程度に上昇した。また、食料品や日用品だけでなく、電気・ガスや外食、宿泊といったサービスの価格も上昇している。それに対して、消費者物価指数の上昇率はせいぜい3%程度だ。私たちの体感物価と、物価の統計には乖離がある。
そのからくりの一つは、私たちが毎日買う食料品などの価格が大きく上昇している一方、何年かに一度しか買わない電気製品などの価格はあまり上がっていないことがある。私たちの体感物価は、実際の毎日の買い物を通じて形成される。ところが、消費者物価指数は多くの品目やサービスの平均値になる。そのため、今回のように食料品などの上昇率に比べて、たまにしか買わない電気製品などの価格が安定していると、どうしても肌感覚と統計上の消費者物価指数とに乖離が出てしまう。
もう一つの乖離の要因は、「持ち家の帰属家賃」の影響だ。自分で家を所有している人は家賃を支払う必要はない。総務省の統計上、自宅に住む人は、持ち家から何らかのサービスや便益を受けると考える。そして、持ち家居住者も相応の家賃を支払っていると仮定して、消費者物価指数の品目に含めている。その主な目的は、持ち家居住者と家を借りている人の生活費を公平に比較すること、また、住宅ローン支払い負担を考慮するためとみられる。わが国の消費者物価指数に占める帰属家賃のウエイトは、全国基準で15・80%(東京都区部は20・00%、2020年基準)と高い。1999年以降、帰属家賃の前年同月比変化率はゼロ近傍だ。帰属家賃はわが国の消費者物価指数に下方バイアスをかけている。物価の評価は帰属家賃を含まない指数で行うべきだとの指摘もある。
また、経済環境の変化のスピードと、消費者物価指数の基準改定の頻度は異なる。近年の世界経済は、目まぐるしく加速度的に変化している。AI関連分野の成長加速は、電力需要の増加など産業構造を変化させている。その一方で、消費者物価の基準は5年ごとに変わる。消費者物価を構成する品目のウエイトは、家計調査の結果を基に決定される。日々の生活に欠かせないモノやサービスの対象、その数量を決めて「バスケット」に入れる。その時のバスケット全体の値段を100とし、後々の変化を指数で示す。私たちの生活に必要なモノやサービスの数量が5年間同じとは限らない。食料品であれば毎週、日用品なら月に2、3回という具合に購入の頻度は異なり、その時々によって購入数量も変化する。
わが国の名目ベースの賃金は緩やかに上昇しているものの、食料品や日用品、エネルギーの価格上昇ペースの方が上回っている。企業は、人手不足もあり人材確保のため賃上げを重視しているが、その恩恵は主に若年層に手厚くなっていて、シニア層への恩恵は限られたものになっている。また、年金生活者にとって、賃上げの恩恵を受けることは難しい。そのため、多くの家計で、実質ベースでの賃金上昇を安定的に実感することが困難になっている。そうした状況が続くと、人々の節約志向を氷解させることは難しい。わが国のGDPの半分以上を占める、個人消費の本格的な回復には時間がかかるとみた方がよいかもしれない。 (3月10日執筆)