もうけよりも信用を第一に
明治時代まで交通の要衝として商業が発展していた茨城県石岡市で、アオキは1895(明治28)年に青木商店として創業した。現在は、アルミサッシやガラスなど建築資材の販売・施工を中心に事業を行っているが、その始まりはランプやガラス食器といった生活用品の販売だった。 「初代の治郎吉は富山県の生まれで、庄屋の次男坊だったことから東京に出て、ランプやガラス食器などの輸入雑貨を扱う店で丁稚(でっち)奉公をしていました。そこでの働きが認められ、のれん分けという形で石岡に店を出したのです。当時の石岡は『政治は水戸、商売は石岡』と言われるほど経済的に発展した地域だったそうです」と、四代目で社長の青木正紀さんは言う。
初代は小売りだけでなく卸売りも行い、地域の家庭や小売店を回って販売する人にも、個人事業主としてランプを販売していった。その際に初代が大切にしてきたのが「もうけを一番にせず、顧客満足と信用を第一にすること」だった。そうした姿勢が評判を呼んでランプの販売量も拡大し、「ランプといえば青木商店」とまで言われるようになった。 「その後は、時代の流れに応じて電球や電気製品なども取り扱うようになりましたが、明治の終わりに国内生産が始まった板ガラスの販売も手掛け、その普及に務めました。それが認められ、二代目・治郎吉の時代、1932年には県で唯一の旭硝子(現・AGC)の特約店となりました。この板ガラス事業は、今も弊社の主力事業となっています」
会社の法人化で経営を近代化
二代目・治郎吉はアイデアマンでもあり、板ガラス4枚とフレームを使ったミニ温室でキュウリを促成栽培できる方法を考案。これがヒット商品となり、地域の農業振興にも大きく貢献した。その後も順調に業績を伸ばしていったが、太平洋戦争に突入すると、板ガラスは統制品となり、二代目・治郎吉は、茨城県板硝子配給統制組合の理事長に就任した。 「物資がない時代ですから、ガラスの調達には苦労したようです。後に三代目となる私の父など、西日本の工場を回ってガラスを集めていました。統制品なので決まった値段で出さねばならず、商売としてのうまみはありませんでした。それでも誠実に商売をしていたおかげで信用がつき、ガラスが大量に出回るようになると、卸売業へと転じていきました」
1948年、個人商店から株式会社青木硝子店へと法人化し、経営の近代化を進めていった。日本で住宅用アルミサッシが製造販売されるようになると、この商品の将来性を予見して、メーカーと特約店契約を結んだ。 「ガラスよりアルミのほうが単価が高く、売り上げが大きく伸びました。また、父の代にはビル建設が増えたのですが、ビル用ガラスやサッシは特注品のため、納期が長くなっていました。地方の建築業者がそれに困っていたため、工場を建設してビル用サッシの自社加工を始めました。それにより多品種・少量生産・短納期が可能となり、顧客ニーズに柔軟に対応できるようになりました」
製品に付加価値をつける
青木さんは、大学を卒業した後、老舗の大手建材問屋で3年間修業。その後、自社に入社した。「これにより自社に何が足らないのかを客観的に見ることができるようになりました」と、青木さんは振り返る。
特に問題だと感じたのは事業計画の欠如で、経営は順調だったものの、10年後には厳しくなると思われた。そこで年間の事業計画を立て、それまでは営業マンが配送もするなど兼任が当たり前だった業務の役割分担を明確にした。 「事業の面では、切断機を導入し、大板ガラスを自社でカッティングして複層ガラス(2枚の板ガラスの間に中空層を設け、断熱性を高めたガラス)を製造できるようにしました。これにより、自社で製品に付加価値をつけることができるようになりました」
その後も世の中の需要を受けて業務を拡大し、現在ではガラス建材のほかに、ビル建材、住宅建材、そして不動産やリフォームなどの住宅関連の事業を行っている。事業がガラスだけにとどまらなくなったことから、2013年に社名をアオキ株式会社に変更した。 「これまで私たちは時代や地域のニーズに応じた商品を提供してきました。現在は『豊かで快適な住生活を築く』を理念に、住空間全体を見据えた提案を行っています。今後は、付加価値のある製品の提案をさらに進めていきます」
同社は、今後も長年培ってきた信頼と技術をもとに、住まいの価値を高める提案を追求していく。
プロフィール
社名 : アオキ株式会社
所在地 : 茨城県石岡市杉並1-7-16
電話 : 0299-22-2226
代表者 : 青木正紀 代表取締役社長
創業 : 1895(明治28)年
従業員 : 約160人(グループ全体)
【石岡商工会議所】
※月刊石垣2025年8月号に掲載された記事です。
