歴史的なまち並みが残る交通の結節点
小京都、小江戸として知られる栃木県栃木市。古く律令時代には下野(しもつけ)国庁が置かれ、江戸時代には、日光例幣使(れいへいし)街道の宿場町として栄え、市内の中心を流れる巴波川(うずまがわ)の舟運を活用した商人のまちとして発展を遂げた。喜多川歌麿ゆかりの地でもあり、現在も蔵づくりの建物を中心とする歴史的なまち並みが残っている。重厚な佇(たたず)まいの蔵やレトロな洋館、巴波川の遊覧船は風情がある。
「太平山(おおひらさん)三大名物(卵焼き・焼き鳥・団子)」や「とちぎ江戸料理」に舌鼓を打つのもいい。太平山三大名物は、太平山神社に奉納された米を団子に、鶏の卵を卵焼きに、肉を焼き鳥にして功徳を施したことがきっかけといわれている。とちぎ江戸料理は、市内の飲食店が江戸時代の文献を基に再現、アレンジした料理。新旧の魅力にあふれる「蔵のまち」を訪ねた。
現在の栃木市は、2010年3月に、栃木市・大平町・藤岡町・都賀町の1市3町が合併して誕生。11年10月には西方町が、14年4月には岩舟町が合併した。関東平野の北端に位置し、栃木県の南部に当たるまちだ。東京から約70㎞、鉄道でも高速道路を使っても約1時間の距離にある。人口約15万9000人、面積は331・50㎢で、栃木、群馬、茨城、埼玉の4県の県境が接する地域だ。
地勢としては、西に三毳山(みかもやま)と岩船山、中央には太平山を中心とする太平山県立自然公園が広がる。南にはラムサール条約登録地である渡良瀬(わたらせ)遊水地を有する。巴波川や渡良瀬川、思川(おもいがわ)、永野川(ながのがわ)などの河川が流れている。また、北東部から南東部にかけては関東平野に連なる平坦地が広がり、米、いちご、ぶどうをはじめとする多彩な農産物を生産する県内有数の農業地帯でもある。このような豊かな自然環境を生かした観光振興や、農産物を活用した地域ブランドによるまちづくりが推進されている。
交通面では、南北には東北縦貫自動車道に佐野藤岡IC、栃木IC、東西には北関東自動車道が通り、都賀ICを有している。この二つの高速道路を、群馬方面からは岩舟ジャンクション、茨城方面からは栃木都賀ジャンクションが結び、物流の効率化や地域経済の発展に貢献している。南部には、栃木、群馬、茨城を結ぶ国道50号線が東西に、北部には国道293号線が通るなど、県内外とのアクセス性に優れている。鉄道は、東武日光線、東武宇都宮線、JR両毛線の3路線あり、通勤・通学の足としてのほか、東京・埼玉方面への交通手段となっている。このように、東西南北全方向に交通網が形成されており、交通の結節点としての拠点性が期待できる。
「古き良きものを大切に新たなまちづくりに挑戦」
昨年11月に栃木商工会議所の第16代会頭に就任した荒金憲一氏は、「第一に、古き良きものを大切にしながら、新しい技術や工法を取り入れ、新たなまちづくりに挑戦します。第二に、地方創生が叫ばれて久しいですが、令和時代の現在、当時の先人たちの気概を今の若者の英知に託します。100年前の隆盛を誇った栃木の経済をよみがえらせる計画『令和ルネサンス』をつくりたい。第三に、『100年前の商都栃木』プロジェクトチームをつくり、商工会議所の会員企業や市民と手を携えて、ひと・まち・ものづくりを進めていきたい」と抱負を語る。
大分県別府市で育ち、ほかの市を経て栃木市で創業して47年になる荒金会頭は、栃木市を「奈良時代末期に詠まれた『万葉集』の歌にもある三毳山や太平山の自然環境に恵まれた田園都市」と表す。
市内には見どころがたくさんあるとした上で、太平山やあじさい坂、岡田家翁島別邸、とちぎ秋まつりを推す。太平山は北関東の桜の名所、あじさい坂は太平山県立自然公園六角堂前から隨神門に至る太平山神社表参道で、約1000段の石段両側に約2500株のあじさいが咲き誇る。岡田家翁島別邸は嘉右衛門町伝建地区の伝統的建造物で、屋久杉の一枚板の廊下の天井板や、一万本に一本くらいといわれる節の無い柱が特徴的だ。とちぎ秋まつりは2年に一度、西暦偶数年の11月に開催され、豪華絢爛(けんらん)な山車がまちを巡行し、栄華を極めた往時をほうふつさせる。江戸末期から明治時代にかけての美術工芸の粋を集めた人形山車、山車同士がお囃子(はやし)を競い合う「ぶっつけ」はまつりを盛り上げる。
「栃木県名発祥の地の栃木の歴史、文化財の人形山車や蔵などの伝統に培われた文化が先人たちの努力により今も残されています。これらの遺産を行政、経済界が連携して構築してきたことを誇りに思います」と語る荒金会頭。そして、「これからは知恵の時代。栃木市のもう一つの宝である、歴史ある高校を活用していきたい。また、IT分野などの専門の人たちが集まり発展するまち、個性が光り技術を持ったスペシャリストが集い成長できるまちにしていきたい。若者の夢に対して年を重ねた人たちが応援しなければならない」と意気込む。
古くから政治などの要衝 宿場町として栄えた江戸時代
栃木市の歴史は、旧石器時代の石器や縄文時代の集落跡が見つかるなど、古くから人が住む地域であり、律令時代には、現在の栃木県域とほぼ同じ下野国の国府が置かれるとともに、東山道が敷かれ、政治や交通の要衝だったと教える。また、この時代に岩船山が開山され、現在も霊場として広く信仰を集めている。
奈良時代の末期に勝道上人によって出流山(いづるさん)が、平安時代の初めには慈覚大師によって太平山が開かれた。一方、室(むろ)の八島(やしま)、しわぶきの杜、しめじが原、伊吹山など歌枕として知られ、都の人々に詠まれたものがいくつも見られる。平将門による承平・天慶の乱の後、藤原秀郷の子孫がこの地に勢力を張った。
鎌倉・室町時代には、元暦年間、小山政光の子、宗政が新しく長沼氏を興し、寛喜年間、その子、宗員が皆川の庄の地頭となり、皆川氏と称するようになった。六代目の宗常は時の鎌倉幕府の執権、北条高時に背いてその領地を没収され、小山氏の領するところとなった。その後、宗員の甥の秀行から7世の子孫にあたる長沼秀光が皆川氏を再興し、栃木郷に出城を築いたともいわれている。
戦国時代は、北上してくる小田原の北条氏、越後より上杉氏、東北方より宇都宮氏、東方からは佐竹氏とそれぞれの勢力が進出する中にあって、戦乱は絶え間なく続いた。天正18年、豊臣秀吉の小田原城攻略の際、時の領主、皆川広照は北条氏との盟約により小田原城に入ったが、その留守中に豊臣方派遣軍に攻められて皆川城は落城した。徳川家康に本領を安堵され、天正19年から本格的に栃木城を構築。まちづくりを行い、現在の栃木の基を築いた。
江戸時代は、慶長14年、皆川氏は改易され、本多大隅守の支配するところとなり、栃木城も取り壊されて、城下町から商人町へと発展した。また、日光例幣使街道が旧岩舟町のまちなかから栃木市へと通り、富田宿、栃木宿、合戦場宿(かっせんばじゅく)、金崎宿(かなさきじゅく)の宿場が置かれ、現在のまちの基礎ができた。
昨年の台風19号からの復旧に向けた取り組み
そんな蔵のまち、栃木市を昨年10月12日、猛威を振るった台風19号が襲った。永野川、巴波川などの河川が氾濫し、住宅や事業所、工場、店舗といった建物への浸水などにより、甚大な被害がもたらされた。12月末現在、743件で被災状況が確認され、被害額は31億9000万円(被害想定額判明事業者数348件分)と想定される。被害は機械設備車両が半数以上を占め、被害額は17・5億円にも上り、次いで建物、商品在庫の順となっている。
12月上旬に取材した際、市内には流されてきたゴミの山があり、折れた大木、押しつぶされたフェンスなど、生々しい爪痕が残されていた。商工会議所は床上浸水により、1階事務所は閉鎖し、2階を仮事務所として営業。被災企業対象に、複数の中小企業が連携して申請するグループ補助金の説明会を開催する準備をしていた。
会員企業の「ビヨウシツヒガノ」は店舗や自宅が床上浸水し、押し寄せてきた水で店舗内の壁や柱は変色。機器類は全て使用できなくなり、店舗を改装していた。「有限会社石川製作所」も床上浸水による機械設備や車両の破損、製品の水没などで復旧作業中だった。社内の壁には浸水した位置に線が引かれ、「早い復旧に向けてがんばろう!」という誓いがペンで書かれていた。両社とも1カ月近く事業を再開できない状況にあり、顧客離れを心配していた。
商工会議所も被災企業も平常を取り戻すために懸命に取り組んでいる。荒金会頭は、「非常に大きな被害をもたらした台風19号のような災害がまた近いうちに起こるかもしれない。中小河川の全面的な点検と災害に強いインフラ整備を行政に要望したい」と述べるとともに、「広域的視点から大調整池の重要性」を提言する考えだ。
「令和ルネサンス」を将来像として描く
一方、栃木市もほかのまちと同様に、少子高齢化の波が押し寄せる。荒金会頭は、若者の流出を防ぐべく働く場の創出の必要性を説くと同時に、「さまざまな人に広く門戸を開き、ジモトモンが拒絶することなく他から来る人を歓迎し、よそ者、若者、ばか者がコラボしてその人たちの能力を伸ばし、応援して支えて一緒になって発展できる、思いやりのある人々が住むまち」を思い描く。
例えば、交通網をさらに整備し、近隣の市をつなぐ4車線の基幹道路をつくり、30分以内で往復できるような北関東の商圏を形成する。観光面では、文化財の人形山車の活用について山車伝承会とともに研究、市のシンボルである巴波川の対岸で線香花火大会を開催し新たな風物詩とする│。
そして、商工会議所は、栃木市の特色ある農商工に光を当て、磨きをかけたいとしている。栃木市が日立製作所の創業者、小平浪平翁の生誕の地でもあることから、「世界に羽ばたく若いものづくり経営者の志を持つ人材を育成するため、米国のシリコンバレーを参考に、高付加価値のひと・ものの交流『トチギバレー』開発計画を進め、歴史、伝統に培われた文化や地域資源の調和した県南中核都市『令和ルネサンス』」を栃木市の将来像として掲げる。
伝統や文化を継承しつつ、新しいことに挑戦する「令和ルネサンス」が実現する日はそう遠くないだろう。
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