浜田市は島根県西部に位置し県内唯一の貿易港と、特定第三種漁港を有しており、基幹産業は漁業です。
私は、地元の高校を卒業後、東京の大学に入学。卒業後は事業を承継するために帰郷することは決めていたので、何の迷いもなく学生生活を楽しんでいました。中でもヨットには打ち込みました。朝から晩まで船に乗る毎日。明治大学ヨット部卒業と言ってもよいかもしれません。
父は口には出しませんでしたが、後を継ぐことに関して、いろいろと考えていたようです。私は大学卒業後、まず異業種の問屋さんに就職。その会社の社長に父が惚れ込んでいたのと、外の釡の飯を一度は体験させるという二つの目的があったようです。
わが社は、寝具を中心とする小売業です。父が創業者で私が二代目。当社の事業は、かつてはブライダルという「イベント」が大きな比重を占めていました。しかし、先代は季節に左右されない商売を模索。「病院基準寝具」という業態に注目し、病院に対する寝具の貸与と、それに伴うシーツ類の洗濯をするというリネンサービスを確立させました。今では、わが社の重要な位置を占めるようになっています。
私はどちらかというと、小売業に比重を置いていました。ちょうど商店街をどう再生するかという議論をしている時期で、その議論に参加するうちに商工会議所活動に参加するようになっていきます。
企業経営で最大のピンチは山陰西部を襲った昭和58年の豪雨災害でした。最大1時間降水量は浜田市で91㎜。この集中豪雨で市内のほぼ全ての河川が氾濫(はんらん)し、まちが壊滅。わが社も店舗、倉庫、工場など10カ所以上が被害に遭い、40年間積み上げた内部留保を全て失いました。一時は資金繰りなどが非常に苦しく、「これで最後かな」とも思いましたが、社員の頑張りと取引先、お客さまのご支援でなんとか立ち直ることができました。このときもそうですが、今も私のモットーは「常に社員とともに、お客さまとともに」、会議所で言えば「会員とともに」です。
経営を継続させていくためには何かが良いときに、将来に向かって別の何かを試すことが大切です。私の代になってから、介護ビジネスを始めました。まだ細い柱ですが大きく育ちつつあります。そういう意味では変化に対応できる組織づくりが重要だと考えています。
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