平成27年10月に新設されたスポーツ庁で初代長官を務める鈴木大地さん。その印象は、行政機関のトップとは思えないほど親しみやすく情熱的だ。ご存じのとおり鈴木さんは、昭和63年のソウル五輪100m背泳ぎで金メダルを獲得し、当時低迷していた日本競泳界の救世主となる。それからおよそ30年、鈴木さんがソウルの金メダル秘話とスポーツ庁長官として狙う新たな「金メダル」について語った。
金メダルを取るために必勝の戦略で臨む
鈴木さんが水泳を始めたのは、7歳のとき。病弱な体を鍛えるためだったが、筋肉や関節に天性の柔軟性を持っていた。しなやかな足の動きで高い推進力を誇り、「黄金の足」と呼ばれて少年時代から注目を集めていた。
しかし、選手として全てが順風満帆だったわけではない。順天堂大学2年生のとき、猛練習がたたって腰を痛めてしまい、長期間寝たきり状態になってしまう。2年後のソウル五輪出場など、夢のまた夢と諦めかけた。
「逆風のときは、じっと耐えることです。ふてくされずに地道に頑張っていれば、心が成長します。そんな思考癖をつけると、ピンチをチャンスに変えるエネルギーが自然に湧いてくるものです」
必死の治療によりわずか3カ月余りで復帰し、2年後の昭和63年ソウル五輪出場を果たす。そして男子100m背泳ぎ決勝、鈴木さんは当時世界記録保持者のデビッド・バーコフ選手を0秒13差で破り、金メダルに輝く。それは、低迷状態にあった日本競泳界の復活を強烈に印象づけ、鈴木さんは瞬く間に国民的なヒーローとなった。
「大変な緊張感の中で勝てる自信はあったのですか」と尋ねると、「はい、ありました」。鈴木さんは笑顔で即答した。
「それまで何度か世界記録保持者であるバーコフ選手と直接対決してきましたが、一度も負けたことがなかったんです。大きな試合で心技体をピークに持っていき自分の力を出し切るということは、十数年の競技生活の中で私が一番こだわってきたことでした」
現役時代、鈴木さんの武器はバサロと呼ばれる独特の泳法(潜水泳法)だった。予選で3位につけ、首位のバーコフ選手とのタイム差を確認すると決勝で勝つための戦略を立てた。「バサロを25mから30mまで伸ばすこと、ラストは一直線に手を伸ばしてゴールタッチすること。決勝ではすべて狙ったとおりに戦えました」
アメリカへの留学でスポーツの概念が変わった
金メダルは壮絶な戦いの後にもたらされた勲章だった。当時まだ大学生だったこともあり、次のバルセロナ五輪へ期待する声も大きかった。しかし鈴木さんは、平成4年に現役を退く。
「ソウルを目指すにあたり、一生泳がなくていいと思えるくらい、濃い競技人生を送ってきたつもりでしたし、結果も出せました。ダラダラと競技生活を続けるのではなく、スパッと引退しました。それに当時の水泳界にはプロという選択肢はなく、食べていくためには自分でなりわいを見つけるほかなかったこともあります」
ハンサムで明るい性格、弁も立つ。引退後はスポーツジャーナリストや芸能界への誘いも数多くあったという。
「実はバルセロナ五輪のときに水泳の解説をさせていただいたんです。しゃべることは嫌いではありませんでした。けれどその道のプロと比べると、ボキャブラリー不足がひどく目立ちました。まだまだ人前に出るような人間ではないと思ったのです」
鈴木さんは全てのオファーを断り、母校である順天堂大学で教職に就いたが、転機はすぐに訪れる。翌年の平成5年に、日本オリンピック委員会からコロラド大学に客員研究員として派遣されたのだ。さらに5年後、ハーバード大学水泳部のゲストコーチとして招待され、2年間の海外留学を経験した。
「アメリカで学んだことでスポーツの概念が変わりました。日本のような『やらされ感』がなく、選手がみな自主的に練習に励み楽しむ姿は刺激的でした。これはトップアスリートに限ったことではなく、学校教育においても同じことがいえます。好きだからやる、下手でもいいから楽しむためにやる、というシンプルな考え方を日本に持ち帰り、教育者として伝えていくべきだと思いました」
帰国後は、順天堂大学に復職し水泳部監督に就任した。
一方で鈴木さんは、スポーツとは無縁に思える「医学博士」の学位も持っている。15年に日本人初となる世界オリンピアンズ協会の理事に選出されたことをきっかけに、大学側から博士号を取得してはどうかと提案されたのだ。鈴木さんが研究論文のテーマとしたのは、「寝たきりの高齢者が水中運動を行うことで、日常生活ができるまで回復できないか」というものだった。日本の五輪金メダリストで医学博士の学位取得は、元レスリング選手の佐藤満さんに次いで二人目の快挙となった。
「五輪の金メダルは、一つのゴールであり、第二の人生のスタートでもありました。小学生のときからスポーツばかりしてきたため、アスリートであることを捨て、社会に出るということは、それなりの覚悟と努力が必要でした」
鈴木さんはアスリートのセカンドキャリアについて、まだまだ課題が多いという。
「五輪に行った人、行けなかった人で人生が変わるでしょうし、メダルを取れたのか、さらにメダルの色も重視されます。学生は文武両道を極力貫くことが大切ですし、社会人はアスリートとしてはもちろん、人としてのキャリア形成を意識すべきです。時間を有効活用して社会に役立つ人間を目指すべきだと思います。順天堂大学は、勉学にも厳しく、五輪開催中もレポート提出がありました。けれど、それが良い気分転換になった面もあります。体力的にも精神的にも何十時間も一つのことに集中するのは難しいでしょう。むしろ違うことをやった方が切り替えられて、スポーツの効果が上がるという最近の研究結果があるそうです」
スポーツの価値向上に全力尽くす
平成27年10月、鈴木さんに五輪金メダリストとしての集大成ともいえる転機が訪れる。文部科学省の外局であるスポーツ庁が発足し、初代長官としてかじ取りを任されることになったのだ。これまで複数の組織に分散されていたスポーツ行政を一本化し、トップアスリートの育成強化、スポーツの普及振興、障害者スポーツの充実などスポーツの環境に大きな変化をもたらすことを期待されている。
「就任を決めたときに、『パパはバカだね』と息子に言われました(笑)。2年後には無職になるかもしれないのに、安定した大学教授の職を辞めるなんて信じがたかったのでしょう。しかし、選手経験のある私だからこそ、選手の気持ちに寄り添えることがあるかもしれません。それに海外留学の経験を経て、スポーツによる国際交流の可能性を見いだしました。水泳部の監督を務めることで、コーチングについても学ばせていただきました。研究職に就いてからは、『スポーツが健康にどう影響するのか』を究めてきた自負があります。スポーツへいろいろな関わり方をしてきたことで、自分にもできることがあると思ったのです」
行政のトップとして鈴木さんが新たに目指す「金メダル」とは、どのようなものなのだろうか。
「スポーツ庁長官としての最終ゴールはあくまで、スポーツの価値を高めることです。世界選手権や五輪でたくさんのメダルを獲得することも大事ですが、最終ゴールではありません。私が目指すのは、その先です。国民の健康増進、国際交流や地域・経済の活性化もスポーツでできるということを国民のみなさまに認めてもらうことこそが、スポーツの価値を上げることだと信じています。10年後、20年後に『あのときスポーツ庁ができて良かった』と思われるよう、全力で取り組むつもりです」
自らを「戦う長官」と称する鈴木さんは、新たな「金メダル」獲得への戦略にも自信をもっているようだ。
鈴木大地(すずき・だいち)
スポーツ庁長官
昭和43年千葉県生まれ。7歳から水泳を始め、ロサンゼルス五輪に初出場。ソウル五輪では100m背泳ぎで日本競泳陣16年ぶりの金メダルを獲得した 。平成4年に現役引退。10年にハーバード大学水泳部のゲストコーチとなり、活動の幅を広げた。帰国後母校の順天堂大学に勤務し、水泳部監督に就任。19年には医学博士の学位を取得。21年から日本水泳連盟理事を務め、25年に史上最年少で同連盟会長に就任。27年10月より現職
写真・後藤 さくら
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