自然のシンボル〝コウノトリ〟
兵庫県北部に位置する豊岡市は、北は日本海に面し、東は京都府に接する但馬北部地域の中心都市。平成17年に、旧豊岡市と周辺5町が合併して、人口8万5千人の新しい豊岡市が誕生した。
市内中心部には、一級河川の円山川が流域に豊かな恵みを与えつつ流れており、日本海に注いでいる。また、その河口部を含む海岸部は「山陰海岸国立公園」に指定され、山陰海岸ジオパークのエリアにもなっている。さらに同河川の「下流域・周辺水田」は、2012(平成24)年7月に「ラムサール条約」に湿地登録され、畿内に11ある一級河川の中でも、最も自然が豊かな河川の一つだ。
こうした豊岡市の自然のシンボルが、市の鳥にも指定されている〝コウノトリ〟である。
その昔(江戸時代には)、コウノトリは、日本全国いたるところで見ることができたなじみの鳥であった。それが明治から大正・昭和にかけて、銃による乱獲や太平洋戦争後の農地の整備、河川改修による湿地の消滅、さらには農薬の使用などの影響で、1971(昭和46)年に、野生の一羽が死んでしまうと、日本の空からコウノトリが姿を消した。その最後の生息地が豊岡であった。
実は豊岡では、その7年前の1964(昭和39)年に、野生のコウノトリが12羽にまで減ったため、翌(昭和40)年に、野生の2羽(ペア)を捕獲し、人工飼育を始めていた。人工飼育は、市内のコウノトリ飼育場(現在の「兵庫県立コウノトリの郷公園」付属飼育施設保護増殖センター)で行われたが、なかなか繁殖に至らず「苦難の連続であった」と記録が残っている。
それでも人工飼育25年目にあたる1989(平成元)年には、初めてのヒナが誕生。さらに17年後の2005(平成17)年に、野生復帰に向けた第1回の放鳥が行われ、その結果、2年後の2007(平成19)年には43年ぶりに国内の野外でヒナが誕生した。そして、前述の第1回放鳥から11年たった28年11月時点では「兵庫県立コウノトリの郷公園」由来のコウノトリは90羽を超え、飛来自治体数は北海道、沖縄県を含む全国44道府県300市町村に達しているという。
こうした取り組みを長年行ってきた豊岡が近年注力しているのが、地域資源である〝鞄(かばん)〟と〝まち並み〟を生かした地域おこしである。
神話の時代から続く鞄作り
「地場産業の育成が一番大事」と力強く語るのは、豊岡商工会議所の宮垣和生会頭(当時・現顧問)。
その豊岡の地場産業は、今から2000年ほど前、神話の時代とされる西暦27年に伝わったという「柳細工で作られたカゴ」をルーツに持つ鞄産業である。
鞄は、東京、名古屋、大阪、豊岡が四大産地であるが、この中で、豊岡が生産量・出荷額、従業員数で〝日本一〟であることはあまり知られていない。それは、豊岡がOEM(相手先ブランド製造)を主流としていたことに起因しているといわれる。ここで豊岡の鞄作りの歴史を振り返っておきたい。
ルーツは前述のとおりであり、それは712(和銅5)年の『古事記』の記述に基づくものである。また、奈良の正倉院には、今でも奈良時代に豊岡で作られたとされる「柳筥(やなぎかご)」が納められている。これは「豊岡杞柳細工(とよおかきりゅうさいく)」といわれ、前述の円山川流域に自生するコリヤナギで籠を編むことから始まった。1473(文明5)年に記された『応仁記』では、これらの品は〝柳こおり〟と呼ばれ、盛んに売買されたという記述があることから、戦国時代あたりから、豊岡地域の家内工業として杞柳産業が成立したものと思われる。
江戸時代になると、豊岡藩が同産業を保護・奨励し、専売制(独占販売)を確立。「豊岡の柳行李(やなぎこうり)」として、大阪を経由して全国に販路が拡大した。
豊岡の鞄としては、1881(明治14)年の第2回内国勧業博覧会に八木長衛門が「3本革バンド締めの行李鞄」を出品したことが始まりといわれている。この「行李鞄」は、外観がトランクと変わらないことから、本来は〝鞄〟に区分されるべきものであったが、本品は、従来の杞柳製品の改良品であり、柳行李で名高い豊岡の製品であったこともあり、〝鞄〟ではなく〝行李〟と呼ばれた。
その後、大正を経て昭和になると素材も変化し、これまでの柳に代わり紙を圧縮した「ファイバー」になった。このファイバー製の鞄は、1936(昭和11)年のベルリンオリンピックの際、日本選手団の鞄に採用され、その後、豊岡の鞄の中心になっていった。
太平洋戦争後の1953(昭和28)年には、新素材の塩化ビニールレザーの使用が始まり、また型崩れ防止のためにピアノ線を使用した鞄も誕生した。軽くて丈夫なこの鞄は、従来の鞄の欠陥を補った商品として評判を呼び、折からの「岩戸景気」にも後押しされて、売り上げは急増。市内に300を超える鞄関連事業者が生まれるきっかけとなった。この時期の鞄の生産量は全国シェアの80%を超え、産地として確固たる地位を築いた。
時代は昭和から平成に移り、バブル期を迎えるが、数年後その崩壊により市場は縮小。加えて中国製品に代表される安価な外国製品の輸入が増加した影響で、鞄関連事業者の衰退が目立ち始めた。このころから、産地としての危機感が醸成されていったと思われる。
地域ブランド「豊岡鞄」と〝アルチザン〟の誕生
こうした危機感の中、2006(平成18)年に嬉(うれ)しいニュースがあった。それは、特許庁の地域ブランド(地域団体商標)として「豊岡鞄」が工業製品初の認定を受けたことだ。これをきっかけに販路開拓に努めた結果、全国の百貨店などで「豊岡鞄」フェアの開催が相次ぐようになり、地域ブランド「豊岡鞄」の認知度と価値が、ここで一気に高まったのである。
さらに、豊岡商工会議所や豊岡市、地元商店街などが出資して設立した豊岡まちづくり株式会社が、地方創生策の一つとして「豊岡鞄」をはじめとする豊岡製鞄を活用した産業観光の推進を担うことになった。その一環として「トヨオカ・カバン・アルチザン・アベニュー」(以下、「アルチザン」という)が、2014(平成26)年に市街地中心部のカバンストリート(宵田商店街)にオープンした。
「アルチザンのオープンにより、豊岡の鞄を市外で売るだけでなくて、まちの中でも買えるようになりました。これにより、例えば、市内の城崎温泉に観光に来られたお客さまも鞄を購入するために立ち寄っていただけます。また、「豊岡鞄」をはじめとする豊岡製鞄を販売したいバイヤーとの商談もここで商品を見ながら行うことが可能になりました。アルチザンが中心市街地活性化の核になれるよう、これからも本事業を推進していきたいです。ただ、アルチザンだけで〝鞄のまち豊岡〟の全てを表しているわけではありませんので、「豊岡鞄」をもっと多くの人に知ってもらうための努力を続けます」と語る宮垣会頭(当時)。
また、アルチザンは「豊岡鞄」をはじめとする豊岡製鞄のショップ機能とともに、次代を担う鞄職人の育成機能も持ち合わせている。その証拠に一つの建物にショップ(1・2階)と鞄職人の専門校(3階)が併存しているのである。
その理由を「豊岡が日本一の鞄の産地というだけでなく、若者が学ぶ元気なモノづくりのまちであることや技術が集積していることを伝えるためでした」と説明するのは、アルチザンのマネジャーでまちづくり会社の林健太氏。続けて「この専門校には、生半可な気持ちで入学してほしくありません。1年制で年間授業料は126万円です。授業時間は1380時間と一般の専門学校より長く設定しています。さらに、市外出身者は住居費がかかります」という。かく言う林マネジャーも大阪出身で移住者の一人である。
「この時代、これほどの時間とお金をかけて鞄職人を目指す人がいるのですか」と意地悪く尋ねると、「当然います。皆、本気の人ばかりです。初年の2014年入学の1期生は6人、翌15年の2期生は9人で、合計15人が既に卒業しました。このうち14人は市外出身者です。現在の3期生は8人ですが、全員が市外出身者です。また、卒業した15人のうち9人は豊岡市内に住み、市内の鞄メーカーに就職しました。卒業生の中には、大阪でSE職を務めていた男性もいました。彼は対象年齢ぎりぎりの40歳で鞄づくりの世界に飛び込んできましたが、もちろん1年で卒業し、今は市内の鞄メーカーで職人として立派に働いています」と、林マネジャーは明快に回答した。
こうした取り組みは、職人の高齢化で後継者不足に悩む鞄メーカーはもちろん、人口減少に直面する豊岡にも朗報だ。地域の主力産業が盛んになれば雇用も増え人口増につながるという統計もある中、今後の展開が楽しみである。
〝昭和レトロ〟と〝今〟を融合させまちづくり
豊岡駅から東にのびる一本のまっすぐな通り。この通りを歩くとどこか懐かしい気持ちになるのはなぜだろう。それはこの通り(大開通り・豊岡駅通商店街)に、1996(平成8)年に文化庁から認定を受けた近代化遺産「復興建築群」が残っているからだ。
「今から90年ほど前の1925(大正14)年5月23日に発生した『北但大震災』で、市街地の大半が焼失するなど大きな被害を受けました。復興にあたっては、地震や火事に強いまちを目指して、当時最新の耐火鉄筋構造建築が採用されました。建物の規模は比較的小さめですが、当時の姿がこれほど多く残っている地域は、全国でも珍しいと思います。しかもその多くは、店舗や住居などとして今も日常的に使われています」と語るのは豊岡駅通商店街振興組合の朝日健司理事長。
加えて「観光のお客さまに、これらの古い建物を見ていただき郷愁に浸ってもらうだけでは発展はありません。外部の若い力も借りて、〝昭和レトロ〟と〝今〟を融合させたまちづくりを考えています」と将来を見据える。その代表例が、同商店街のほぼ真ん中にある旧兵庫県農工銀行の建物をリノベーションした「豊岡1925」だ。ルネッサンススタイルの建物にお菓子の館をテーマとしたショーケースやレストラン・カフェ・ホテルが併設され、まち歩きに欠かせないランドマークとなっている。
豊岡には、ここでご紹介した以外にも多くの観光・地域資源が存在する。旧豊岡市と旧5町との6つのエリアの連携がさらに深まれば魅力度アップは間違いなし。数年後改めて訪れたいまちである。
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