かつてないほどの注目度と盛り上がりを見せた平昌パラリンピック。その舞台裏で選手を励まし支え続けた人がいる。冬季パラリンピックにおいて日本人最多となる10個のメダル獲得を誇るアルペンスキー界のレジェンド、大日方邦子さんだ。彼女の情熱は障がい者スポーツ発展の推進力となっている。
スポーツで人の概念を変える
パラアルペンスキーのカテゴリーの一つ、シッティング(座位)クラスをご存じだろうか。3月に開催された平昌パラリンピックでは、村岡桃佳選手が金銀銅と合わせて5個のメダルを獲得し、話題をさらった。選手はチェアスキーという用具を使い、上半身でバランスを取りながら一気に雪面を滑降する。最高時速が100㎞を超える種目もあり、危険と隣り合わせの競技だ。このクラスで長きにわたり活躍し、引退するまでに冬季パラリンピックでは日本人最多となるメダル10個を手にしたパラアルペンスキー界のレジェンド、それが大日方邦子さんだ。その豊富な経験と実績が買われ、平昌パラリンピックでは日本選手団団長に抜擢(てき)された。「良き理解者として選手らに寄り添ってほしい」との期待を背負ってのことだった。
大日方さんが最も力を入れたのは、選手との対話だった。「今は疲れているだろうなとか、精神的なサポートが必要だなとか、私も経験者なので察しがつきます。可能な限り一人ひとりとゆっくり話す時間をとりました。ただし、答えは自分で導き出してほしいと思っていました。どれだけ周囲がサポートしたくても、最終的にスタートラインに立つのは選手ただ一人だからです」。大日方さんは、パラリンピックの意義とは「可能性はもっと広げられる」というメッセージを届けることだと言う。障がいの有無にかかわらずだ。「最初は誰もが、選手の『できないこと』に目がいきます。あの人は歩けない、だって車椅子だからというように。ところが実際に競技を目の当たりにすると、観客の意識は変わります。『できること』に注目するようになる。選手たちの卓越した技術が、障がいのあることを忘れさせるのです」。一見難しそうでも、道具の力を借り、あきらめずに努力すれば、必ず道は開けるのだと大日方さんは力強く語る。「そのことを、私はパラリンピックから学びました」。4年に一度の大舞台へ臨む選手に過度なプレッシャーをかけないよう、大会前に金メダルの目標数をあえて示さなかった。そして結果的に、前回大会を上回る10個のメダルを獲得した。選手らの活躍により、「障がいを持つアスリート」が特別視される時代は過去のものになりつつある。
諦めないでやり続けること
3歳のときに交通事故で右足を切断した大日方さんがスキーを始めたのは高校2年のときだった。偶然、チェアスキーという道具を見掛けたのがきっかけだった。「これなら私にもできる」。実は以前から立って滑るスキーに憧れを抱いていたが、医師から無理だと止められた。しかしチェアスキーなら座って滑ることができる。念願の雪山に行くと、すぐに病みつきになった。「恐怖心はなく、心身が解放されていく快感を味わいました」
大学へ進学してからも大日方さんのスキー熱は冷めることはなかった。中央大学法学部に通い弁護士を志す一方、強化指定選手となりパラリンピックを目指すこととなった大日方さんは、1994年のリレハンメル大会で初出場を果たす。弱冠21歳だった。
「誰がどう見ても当時の私はパラリンピックに出られるレベルにありませんでした。しかし長野大会の開催が決まったことで、若手育成に一層力を入れることとなり、私にも白羽の矢が立ったのでした」。滑る直前にヘッドコーチから伝えられたアドバイスは、「お嬢ちゃん、無理しなくていい。楽しんでね」だった。勢いこそあったものの無理がたたってコースアウト。リレハンメルの病院に担ぎ込まれた。
大日方さんはこの悔しさをバネに4年後に向けて努力を続けた。NHKにディレクターとして入局し、教育番組制作に携わりながら、時間をやりくりしてスキーのトレーニングにあてた。そして98年の長野パラリンピックで日本人初の金メダルを獲得。金メダルのビッグニュースは新聞の一面を飾り、大きな注目を浴びた。それまでパラリンピックに無関心だった日本人の意識を変え、パラ競技を「スポーツ」として楽しむ文化が芽生えた。大日方さんは、リレハンメルからバンクーバーまで5大会連続でパラリンピックに出場。金2個を含む計10個のメダルを、2010年に現役を引退するまでに獲得したのだった。
設備投資より意識改革を
大日方さんは現在、日本パラリンピック委員会運営委員のほか、10以上の団体や機関の委員を務め、後進の育成にも力を注いでいる。「3歳で事故に遭い命がなくなっても不思議ではありませんでした。その中でいろいろな奇跡やタイミングが重なり生きることができました。両親からも『何か社会に役に立つことをやりなさい。そのためにこの命が残されたのだと思う』と言われ続けてきて、それが私の使命だと思ってきました」。今後の課題は、体を動かすことが得意でない障がい者にもスポーツの輪を広げることだ。「障がいのある人がスポーツを始めたくても情報が足りていないんです。どこで何ができるのかすら分からない。現場を知る私たち選手や指導者が情報発信し、施設を増やしていくこと。われわれの趣旨に共感し、支援してくださる企業が増えれば、こんな心強いことはありません」
並行して電通PR社員として、2020年の東京パラリンピックに向けたパートナー企業や行政、開催地域住民などへの働き掛けも行っている。大日方さんは、20年は日本を良い方向へ変える礎になるだろうと語る。「開催時には、国内外から多くの障がいを持った方が来られます。考えようによっては、超高齢化社会を一足先に体験できるということです。今後の日本社会にどんな準備やサポートが必要なのかを大いに学べるチャンスだと思います」
実は、今回の取材は平昌パラリンピック開催前に行われた。大会後、大日方さんから本誌読者へ次のようなメッセージが届いたので紹介したい。
︱平昌大会では、日本から大勢の方が現地に応援に駆けつけてくださったことに感謝申しあげます。日本でも多くのメディアなどでパラリンピックに関する記事やニュースが流れたと聞き、パラリンピックへの関心が高まっていることをうれしく思います。また、2020年大会の成功に向け、心強く感じています。
今大会に団長という立場で参加することができた貴重な経験を糧に、引き続きパラリンピックの発展と多様性を包摂できる成熟した社会の実現に向けて、貢献できる道を探し続けたいと思います--
大日方 邦子(おびなた・くにこ)
平昌パラリンピック日本選手団団長冬季パラリンピック アルペンスキー金メダリスト
1972年東京生まれ。3歳の時に交通事故で右足を切断、左足を負傷。高校2年の時にチェアスキーと出合い、スキーヤーとして歩み始める。92年、中央大学法学部入学。96年にNHK入局。98年、長野パラリンピックで日本人初の金メダルを獲得、2006年トリノパラリンピックで2つ目の金メダルを獲得。日本人最多となる通算10個のメダルを獲得。07年、電通パブリックリレーションズ入社。現在は電通PR社員として勤務の一方で、公職活動に従事しつつスポーツを取り巻く社会環境の改善に取り組むほか、「誰もが安心して生きられる社会」を目指し、多様性を許容できる社会の普及に資する活動にも力を注ぐ
写真・後藤さくら
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