かつお削り節を全国に
愛媛県はかつお削り節では全国でも有数の産地として知られている。その中心が瀬戸内海西部の伊予灘に面した伊予市で、削り節やだしの素、めんつゆなどを製造するヤマキは、大正6(1917)年にこの地で削り節メーカーとして誕生した。海産物問屋「城戸豊吉商店」を営んでいた創業者の城戸豊吉が、大阪の市場で見た削り節の切削機に可能性を感じ、3台を購入して地元で削り節を製造したのが始まりで、「ヤマキ」はそのころからの屋号である。初代は「信為萬事本(信は万事の本を為す)」という11世紀の中国・唐の史書『新唐書』の一節に深く共感し、これを信念に市場の拡大に努めていった。
「偶然、渋沢栄一翁もこれと同じ言葉をおっしゃっていますが、初代はこれを社是としました。私が社長になってから、決断する場面でいろいろ迷ったこともありましたが、最終的にはこの社是に基づいて判断し、社員みんなも納得してくれました。この社是が、今でも決断する上での会社の最終的な価値基準を決めています」と、三代目社長を務める城戸善浩さんは言う。
初代は製造した削り節を阪神方面へは機帆船を使って運び、大阪以東へは機帆船で広島県まで運び、そこから鉄道を使って輸送した。さらに、生産体制を強化するために昭和12(1937)年に伊予市に新工場を建設。切削機60台を導入して操業を開始すると、全国から注文が殺到した。しかし、第二次世界大戦で国策に協力するために工場の設備を解体して供出せざるを得ず、昭和19(1944)年に全面廃業するに至った。
家は常に会社とともに
戦後、工場が返還されると初代は削り節の生産を再開し、徐々に生産量を増やしていった。そして、昭和25(1950)年にはそれまでの個人経営から法人組織に改組、株式会社城戸商店を設立した。
「昭和40(1965)年に初代が亡くなり、私の父である城戸恒が二代目を継いだとき、年商は11・6億円ほどでした。私が生まれ育った家は会社からほど近いので、会社の人たちが出退勤する姿をよく見ていました。まだ会社も小さかったので、社員とその家族と一緒にバーベキューをしたり小旅行に行ったりと、家は常に会社とともにありました。当時はどこも、こんなふうに家と会社が一体だったのではないかと思います」と城戸さんは懐かしそうに振り返る。
それから城戸さんが三代目社長を継ぐまでの40年ほどの間に、会社は年商350億円にまで成長した。昭和44(1969)年には食生活の簡便化に合わせた「だしの素」を発売。46年に社名をヤマキ株式会社に変更すると、翌47年には1袋5g入りの使い切り「カツオパック」を発売し、54年には同社としては初めてとなる液体調味料「めんつゆ」を発売した。これらの新製品はどれも順調に売り上げを伸ばしていき、今でも定番商品となっている。
その後も2005年に「かつお節・だし研究所」を開設するなど商品競争力の強化を図り、07年に大きな転換期を迎えることになる。
食の変化に合わせた新製品
「その年の2月に味の素株式会社と資本・業務提携契約を結び、4月には私が社長に就任しました。これを機に、ヤマキがオーナー社長のワンマン体制から切り替えていかないと成長を続けることはできないと考え、改革に取り組みました。究極的には社長がいなくても大丈夫な会社になることを目指しています」と城戸さんは言う。
製品に関しても、ヤマキは同じ製品だけをつくり続けるのではなく、新発売の製品は以前とは少しシフトしたものになっている。創業当初は削り節、それから花かつお(かつおの荒節を使った削り節)になり、だしの素、カツオパックを出し、液体調味料のめんつゆになって、白だし(かつおだしに薄口しょうゆなどを加えた調味料)と、食の変化に合わせ少しずつ商品が変わってきている。また、海外展開にも力を入れ、韓国、中国、米国、モルディブに製造拠点や販売拠点を持ち、現地製造、現地販売を目指している。
「5年前の創業100周年の際にタイムカプセルを埋めました。これを30年後に掘り出す予定です。そこに私は『かつお節が世界に届いていますか?』というメッセージを入れました。魚のだしは和食だけのものではありません。世界各国の料理で魚のだしが使われるようにしていきたい。30年後にタイムカプセルを開けたときに、それが実現しているよう努力していきます」
かつお削り節を和食のだしから世界各国の料理のだしへ。ヤマキのこれからの展開が注目される。
プロフィール
社名:ヤマキ株式会社
所在地:愛媛県伊予市米湊1698-6
電話:089-982-1231
代表者:城戸善浩 代表取締役社長
創業:大正6(1917)年
従業員:約700人
【伊予商工会議所】
※月刊石垣2022年9月号に掲載された記事です。
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