直線的で画一な現在都市と比べると、山や川など自然地形に沿った緩やかな町割りは魅力的かつ不思議である。まちなかで角を二つ曲がると元の地点に戻り、三つ曲がるとまるで違う地点に行ってしまう。そんな中世の不思議な町割りが残る島根県益田市。その秘密とは何なのか。
▼益田氏の本姓は藤原。その歴史は、初代国兼が石見国府として赴任した1114(永久2)年にさかのぼる。南北朝動乱期、11代兼見が地域支配を確立し、居城・七尾城と土塁、大規模居館(三宅御土居)を築いて中世城下町を形成した。戦国戦乱のさなか、長門国見島(現萩市)や博多湾沿いに海洋貿易の拠点を設け、朝鮮、中国、ベトナムなどとの国際交易を行う海洋領主としても成長していった。
▼多くの都市は、近世城下町の建設が中世の町割りを上書きしたが、益田では領主の国替えで再開発されることなく中世のまち並みがそのまま残った。中世が残るまれなまちの背景である。
▼その益田の歴史ストーリーが2019年、日本遺産に認定された。タイトルは「中世日本の傑作 益田を味わう」。その物語とともにサブタイトル「地方の時代に輝き再び」に注目した。
▼益田市は本州西端の人口5万人弱の小都市である。山陰本線はあるものの、高速道路体系が未整備であり交通の便は芳しくない。近隣には萩・石見空港があるが、東京へは1日2便と少ない。
▼「地方の時代に輝き再び」は、今は鄙となった地方都市が誇りを取り戻し、大都市にはない資源を生かした地域の再生に込める強い思いの表現でもある。今日の成熟社会ではこうした地方の文化的蓄積と再生、さらには地方こそが世界標準となる時代ではないか。
(観光未来プランナー・日本観光振興協会総合研究所顧問・丁野朗)
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