廃業の瀬戸際から復活
京都府北部に位置する城下町で、江戸時代から北近畿の要衝として栄えた福知山市。中庄本店は、この地で業務用食品の卸売業を営んでいる。その起源は江戸時代の寛政年間(1789~1801年)に、中という村の出身の初代塩見庄兵衛が開いた中村屋庄兵衛商店である。当初は製菓業を営んでいたが、原料である砂糖や小麦粉などの販売を始めると、その後は肥料や石油の販売、農場経営、しょうゆの醸造、水あめの製造、水力発電(現在関西電力により稼働中)と、事業を広げていった。
「五代目庄兵衛が明治元年に店名を中庄本店に改称し、その年を会社の創業年としています。このころが全盛期だったのですが、六代目庄兵衛が今の商工会議所の前身である福知山実業協会の会長をしていた大正9(1920)年に46歳で急逝し、その後継ぎの七代目も31歳で急逝するという不運が続いて、徐々に事業を縮小せざるを得なくなりました」と、九代目の塩見和之さんは言う。
七代目には男の後継ぎがおらず、その後は残った従業員たちで本業の食品卸売業を続けていったが、事業はうまくいかず、昭和38(1963)年に廃業するかどうかの瀬戸際に立たされた。
「当時、七代目の長女が結婚して大阪で暮らしていて、その夫が八代目を継いで中庄本店を続けることになり、勤めていた会社を辞めて福知山に戻ってきました。直系ではなかったので庄兵衛の名は襲名していません。それが私の父になります。私が子どものころで、それまで大阪の豊中市の団地に住んでいたのですが、両親、妹と一緒に福知山に引っ越してきました」
業務用食品の販売に転換
しかし、当時は競合の卸売業者が市場を押さえており苦戦する。活路を見いだすためにドライブインやビジネスホテルなども始めたが、素人商売ということもあり、うまくはいかなかった。
「私は大学卒業後、仕入先で勉強させてもらい、昭和60(1985)年に会社に入りました。子どものころから親が頑張って店をやっているのを見ていましたから、将来は"自分が継がなあかんな"と思っていました。会社は食品卸売に事業を集約しましたが、社内は高齢化が進んでいて新しいことに前向きではなかったので、私は二人の同期入社の社員と一緒に、毎日朝から晩まで新たな得意先づくりにかけ回っていました」と塩見さんは昔の苦労を振り返る。
その後、中食・外食産業が発展し、それに伴い同社も業務用食品の販売に切り替えた。それが功を奏し、業績は伸びていった。
「あるスーパーが惣菜販売を始めるためにセントラルキッチンをつくるという話を聞いて飛び込みで行ったら、冷凍食品なら買ってくれるというので、それまでやっていなかった冷凍食品も扱うようになりました。それが今では、冷凍食品が売り上げの半分を占めるほどになっています。また、外食や給食にも売り込んでいきました。生活スタイルの多様化による『食』の外部化の流れにうまく乗ることができました」
ファブレスで自社製品を販売
事業が発展してくると、塩見さんが次に取り組んだのが、わくわくドキドキする事業に前向きな会社にしていくことだった。
「いつもお客さま志向で〝おもしろ愉快に〟仕事をしていれば、おのずとお客さまのニーズを捉えられる会社になると思うからです。私たちのような中小企業は、大企業に比べて何でもでき、思いを形にしやすい。それを生かした取り組みをしています」
その一つが2022年2月発売の「溶けにくいアイスクリームZuT(ずっと)」で、ゆっくり食べてもアイスクリームの口溶けを楽しめるようになっている。これは、得意先の老人介護施設から、食べるのが遅い老人にもアイスクリームを食べてもらいたいという要望があり開発した。自社に工場はなく、他社に製造を依頼している。
「25年には団塊世代が後期高齢者になるので、高齢者向けの食品が今後ますます必要になってくる。そういうところで、私たちがどう貢献していくかを考えているところです。ZuTで自社に工場がなくてもファブレスメーカーとして製品を開発していけることが分かったので、同様の方法で新たな製品を企画しています。あとは、北近畿は面積は広いですが人口が少ないので、大きな市場がある京阪神に商圏を広げていきたいと思っています」
中庄本店は時代の変化に対応するために、事業を徐々に変化させて生き残り、発展してきた。今後もその流れは変わることなく、経営理念である〝人びとに喜ばれる企業になる〟べく新たな道を探し続けていく。
プロフィール
社名 : 株式会社中庄本店(なかしょうほんてん)
所在地 : 京都府福知山市荒河東町176
電話 : 0773-22-3135
代表者 : 塩見和之 代表取締役社長
創業 : 寛政年間(1789~1801年)
従業員 : 約80人
【福知山商工会議所】
※月刊石垣2023年1月号に掲載された記事です。
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