藩の殿様にも好かれた当主
山口県の東南部、瀬戸内海沿いにある周南市(2003年に徳山市、新南陽市、熊毛町、鹿野町の2市2町が合併して発足)で、はつもみぢは酒づくりを行っている。創業は文政2(1819)年で、原田家の三代目、富三郎が二代目から事業を引き継いで、酒造業を始めた。そこは毛利家が治める徳山藩の城下町で、酒蔵のあった場所は上質な水が湧き、酒づくりに適した場所だったという。
「昭和20(1945)年の徳山大空襲で一帯が焼け野原となり、家にあった昔の記録は全て失われました。昔のことについては外にある記録を集めるしかなく、あとは言い伝えのものばかりです」と、十二代目の原田康宏さんは言う。
原田家に伝わる昔話には、次のようなものがある。江戸時代、藩主である毛利の殿様が外に出る際、城下町で町人たちが土下座して頭を下げる中、殿様は原田家の前を通るたびに「新蔵はいるか」と、当時の当主に声を掛けていたという。
その新蔵の弟の嘉兵衛は、安政元(1854)年に豊島家に養子に出て、汽船問屋を興して日本各地に航路を広げた。その後、大正7(1918)年に、今度は嘉兵衛の孫の三郎が原田家に七代目・新作の婿養子として入って原田三郎となり、のちに八代目を継いだ。
原田家が醸造する酒に「初紅葉」と名付けたのは明治31(1898)年、七代目のときで、商標特許出願の際の商標の図柄は「楓樹ヲ交叉シ其上部中間ニ草書ニテ初紅葉ト左下リニ書下シタルモノ」と説明書きがされている。
酒づくりが会社の重荷に
昭和3(1928)年に株式会社原田酒場を設立し、冬から春にかけて杜氏を頭に蔵人が住み込みで酒づくりを行っていた。戦後の29年に初紅葉酒造株式会社に社名を変更すると、酒造以外にビールの販売も開始した。日本経済が復興していくにつれ地元の酒場でビールが売れるようになり、38年にはビールの売り上げが初めて日本酒を上回った。
「戦後にできた製油所の周りにコンビナートが形成されてまちがにぎわい、徳山市の人口に対する飲み屋の割合が全国で1、2位を争っていたぐらいです。うちの会社の周りが飲み屋街になり、いい時代でした。ただ、ビールが売れた一方で、日本酒の販売が落ち込み、酒造部門が会社の重荷になっていきました」
日本酒の生産量が48年をピークに下降線をたどる中、初紅葉酒造は60年、ついに酒造を休止した。それからは、ほかの蔵がつくった日本酒を仕入れ、びん詰めして「初紅葉」のラベルを貼って販売していた。
「僕が高校生で、父は十代目の下で専務だったころです。僕は大学卒業後、洋酒メーカーで3年働いて帰ってきました。十代目が体を壊して、父が後を継ぐころです。会社に入ると業務はビールの配達で、自分たちでつくっていない日本酒を自社の酒として販売することが嫌でしょうがありませんでした」
周南市発足を機に社名を「はつもみぢ」に変更し、十二代目当主となった原田さんは、酒づくりの再開を決意した。
こだわりの酒づくりを再開
「また自社で日本酒をつくろうと思った理由の一つが、地域に地元産の地酒がないこと。うちは飲み屋街の真ん中にあるのに他県の酒を仕入れて売っていた。今まで何をしていたんだと思ったときは、うちが酒づくりをやめてから約20年がたっていました」
原田さんは酒類総合研究所で酒づくりを学び、県内の若手醸造家たちからアドバイスも受けながら酒づくりを始めた。こだわったのは、周南市などの山口県産の米を使い、全量を純米酒にすること。そして、常にフレッシュな酒を提供できる四季醸造だった。
「『初紅葉』がうちの銘柄でしたが、初心に帰る意味も込めて銘柄は『原田』に。味はまだまだでしたが、地域の多くの方々に買っていただきました。酒づくりにこれで完璧というのはありませんが、思いどおりの酒がつくれるようになるまで4、5年かかりました」
それからは社長業をこなしながら杜氏として酒蔵に立つ日々が続いた。また、10年以上前から輸出も始めており、現在はコロナ禍前の10倍にまで輸出量が伸びている。 「ようやく私の意思と技術を引き継げるまでに社員が育ち、昨年4月に、うちで3年ほど副杜氏を務めていた社員に杜氏を交代しました。これからは地域に根差しながらも外にも目を向けていき、売り上げを伸ばすことによって地元にも貢献していきたいと思っています」
一度やめた酒づくりを再開させた上、輸出も始めたチャレンジ精神で、はつもみぢは日本酒文化の裾野を広げていく。
プロフィール
社名 : 株式会社はつもみぢ
所在地 : 山口県周南市飯島町1-40
電話 : 0834-21-0075
HP : http://www.hatsumomidi.co.jp/
代表者 : 原田康宏 十二代目蔵元
創業 : 文政2(1819)年
従業員 : 20人(パート含む)
【徳山商工会議所】
※月刊石垣2023年2月号に掲載された記事です。
最新号を紙面で読める!