白河市は人口5万7千人の地方小都市ですが、東京から新幹線で1時間20分の位置という地理的優位性により、1970年代から盛んに企業誘致が進められ、周辺町村も含めて有数の企業都市となりました。ただ、白河市の旧市街地が城下町特有の複雑なまち並みを形成していることから、その中心商店街は現在のモータリゼーションの波には対応できず衰退が進みました。そのため当所では、15年前から県内で初めて「中心市街地活性化基本計画」の認定を受け、中心市街地の活性化を推進しています。まちは少しずつその様相を変え、成果が感じられつつあります。
昨年、甲子園での全国高校野球選手権大会で仙台育英高校が優勝し、107年の時を経て「深紅の大優勝旗が初めて白河の関を越えた」と全国ニュースで流れてから、この白河の関を参拝する人々が増えて話題になりました。その名が示す通り、古代より白河の関は歴史上にたびたび登場しています。まつろわぬ民、蝦夷の国境、鎌倉幕府による奥州藤原氏の征伐、豊臣秀吉の奥州征伐においても、その大軍は白河の関を怒濤(どとう)となり通過していったのです。松尾芭蕉もこの関越えに際し、「白河の関にかかりて旅ごころ定まりぬ」という言葉を残しています。また同行者の曾良(そら)の歌「卯の花をかざしに関の晴着かな」も広く知られています。
白河は、江戸時代に治めた藩主が7家21代を数えた城下町でもあります。特に、第12代の松平定信公は、その才を江戸幕府に評価されて老中まで上り詰め、世に言う「寛政の改革」を成し遂げたことで知られています。定信公のお抱え絵師の谷文晁(ぶんちょう)がデザインした「白河だるま」は白河の特産品となっており、毎年2月11日に開かれる「だるま市」は例年多くの人々でにぎわい、白河の冬の風物詩となっています。
私は、75年に白河で土地家屋調査士として創業しました。その後、不動産業、土地の測量設計業と事業を拡大し、98年に大規模複合型の商業施設を展開するデベロッパー業をスタートさせ、県内7カ所の「メガステージ」を開発し運営しています。私のモットーである「お客さまの喜びが私たちの喜びです」を常に心に留め、月並みではありますがお客さま第一主義を貫いています。趣味はゴルフと読書です。スコアは友達をなくさない程度です。読書は歴史書、政治・経済書が主です。最近は新貨幣理論を勉強中です。
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