米穀商からしょうゆ醸造業に
群馬県南東部、利根川にほど近い館林市に、創業から150年を迎えた正田醤油はある。創業は明治6(1873)年で、この年に三代目・正田文右衛門は代々続けてきた家業の米穀商から事業を転換し、しょうゆ醸造業を始めた。正田家が館林で商いを始めたのは、江戸時代初期の17世紀後半とされ、米穀商として江戸や大坂にまでその名が知られていた。 「幕末の混乱で穀物の相場が大幅に崩れて三代目は大きな損害を被り、米穀商からしょうゆの醸造へと徐々に軸足を移したそうです。それまで米や麦を扱っていたことから醸造業を営むお客さまとつながりがあり、千葉県の野田市にある醸造会社につくり方を教えてもらいました。館林から利根川を使って江戸に穀物を運んでいたので、野田も通り道だったんです」と、同社社長の正田隆さんは言う。
正田さんは三代目文右衛門から数えると六世代目に当たる。三代目がしょうゆのつくり方の指導を受けたのは、野田でしょうゆづくりを江戸時代から代々行ってきた茂木房五郎で、一族は今のキッコーマンの前身となる会社を創業している。それもあり、正田醤油の商標は同じ亀甲形に正田の「正」を入れたものとなっている。 「後を継いだ四代目は体が弱く、分家に優秀な人がいたので、その人に家業を手伝ってもらいました。名前を正田貞一郎といい、帳簿を複式簿記に変えるなど、経営の近代化を進めました。そして10年ほど働いて当社を辞めた後、館林で製粉会社を創業しました。それが今の日清製粉です」
しょうゆ業界を守る役目も
明治33(1900)年には合名会社正田文右衛門商店となり、大正6(1917)年に正田醤油株式会社を設立すると、同年には東武鉄道と貨物発着の専用線契約を結び、工場や鉄道用軌道などの設備を整え、増産を図っていった。 「昭和2年には研究所を設立し、品質向上のためにアカデミックな研究をするようになりました。そこには当時の経営者の先見性があったと思います。工場も増えて、組織としても大きくなっていきました」
戦後の食糧不足の頃、GHQは伝統的な醸造しょうゆの製法を、原料の歩留まり向上や、製造期間の短縮を重視する合理的な製法へ変更するよう、しょうゆ業界に迫った。これには日本のしょうゆ業界が粘り強く交渉し、伝統的な製法を守ることができた。このときの日本醤油協会会長が、六代目・文右衛門だった。 「六代目は私の祖父で、東京を拠点にして、しょうゆ業界全体を守る役目を果たしていました。祖父には子どもがいなかったため、弟の息子を養子にもらい、後を継がせました。それが私の父で、父の代から会社を変革していき、大きく成長していきました」
家庭用しょうゆ市場は大手メーカーが押さえていたため、同社は業務用や加工用に注力した。昭和30年にはタンクローリーでの出荷を始め、取引先に大量のしょうゆを届けていった。また、38年には業界に先駆けて減塩しょうゆの生産を始め、スープ事業にも進出した。さらに、他社と協力して納豆用のタレや、コンビニのそば用麺つゆなども開発している。そうして同社の製品は、さまざまな形で家庭の食卓に入り、生産量も増えていった。
失敗から始めた生産改革
正田さんは大学で醸造を学び、卒業すると同社に入社した。 「当時はBtoBが主体だったので、家庭用でも知られるようにしたいと、試行錯誤する中で成功したのが贈答用です。手づくり感のあるイメージで百貨店を中心に販売したところ、ヒットしました。いろいろと失敗もしていて、副社長時代には新事業を始めてうまくいかなかったこともあります。そういう痛い目を見て、誰がやっても同じものができるものづくりと、お客さまの注文に合わせてジャストインタイムで生産し、在庫を持たずに新しいものを届ける流れをつくらないといけないと考え、生産改革を手掛けました」
今後については、大きな改革ではなく、生産技術の向上にさらに力を入れていくつもりだ。 「今は三つの技術を高めることを柱にしています。基本である醸造技術と味づくりの技術、そして、製品をパックする技術です。社員教育にも力を入れていますが、人づくりをしていく社内風土がうちの強みです。また、地元出身の社員も多く、地元・館林にも支えられています。当社は売り上げの8割以上がBtoBですので、今後も黒子に徹し、確かな技術で製品をお客さまにお届けしていきます」
同社は、これからも食品業界の黒子として、日本の食卓においしさを届けていく。
プロフィール
社名 : 正田醤油株式会社(しょうだしょうゆ)
所在地 : 群馬県館林市栄町3-1
電話 : 0276-74-8100(代)
代表者 : 正田 隆 代表取締役社長
創業 : 明治6(1873)年
従業員 : 450人
【館林商工会議所】
※月刊石垣2024年8月号に掲載された記事です。
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