油田の発展とともに創業
新潟県中部の長岡市にはかつて油田があり、明治時代後期に石油の採掘が盛んになると「石油のまち」として全国的に知られるようになっていった。それに着目した大原石松は明治40(1907)年、石油掘削機械部品を製造する大原鋳造所を創業した。それが大原鉄工所の始まりである。 「長岡は江戸時代末から鋳物産業が盛んな地域で、初代は長岡の鋳物工場で修業してから独立しました。当初は石油掘削機械の補修用部品を製造していましたが、そのうちに機械工場と組立工場を建てて大原鋳工所と改称し、石油掘削用の完成機械を製造するようになりました」と、大原鉄工所社長で四代目の大原興人さんは言う。
長岡の油田は大正時代半ばから採油量が減り、石油産業は次第に衰退していった。その一方で、昭和6年の満州事変を機に日本では鉄鋼需要が高まっていく。長岡市が工業促進のために鉄道沿線に工業団地を造成すると、二代目・藤松は13年に工場をそこに移転し、社名も大原鉄工所と改称した。その後、日本は石油資源確保のために東南アジアに進出し、現地での石油掘削を開始する。当時、同社はそのための石油掘削機材供給を続けていた。 「しかし戦争が終わると、石油掘削機械の需要は大幅に減りました。そこで始めたのが農業用・発電用水門の開発です。食料が不足していた時代ですし、鉄板や鉄骨を加工する技術は同じですから、灌漑(かんがい)用水のための機械をつくり始めました」
昔の技術が再び花を咲かせる
26年には、新潟県の委託により雪上車の研究開発を始め、試作一号機「吹雪号」を完成させた。 「新潟県は豪雪地帯で、冬季は交通が遮断される。それを解消するために県が雪上車の開発企業を公募し、うちが応募しました。開発には新たな技術や知識が必要で、米軍のキャタピラー車を研究し、試作したキャタピラーを四輪駆動車に搭載して試走してと、試行錯誤しながら完成しました。これにはかなり苦労したと聞いています」
石油掘削用の機械も雪上車も、その後は需要が少なくなったが、再び花を咲かせることになる。まず雪上車が、47年の札幌冬季オリンピックのゲレンデ整備用に使われると、その後のスキーブームにより、多くのスキー場が購入した。また石油掘削用機械も、50年前後に2度にわたり発生したオイルショックにより海底油田の開発が行われるようになり、これまでの掘削用機械製造の技術が生かされることになった。 「農業用の水門も同様に、田んぼはまだ数多くあるので、定期的なメンテナンスや取り替え工事などの需要は続いています。このように、それぞれの事業が時代によって交代しながら会社の主力になっています。当社の製品を利用するお客さまがいる限りは、どの事業も続けていく必要がありますから」
さらに平成2年には、国家事業として、それまでの雪上車開発の技術を応用して南極観測用の大型雪上車を完成させ、南極事業への納入も始めている。
世代交代を契機に社内改革
かつての技術を活用した事業とは別に、昭和34年には、し尿処理における化学処理装置の開発に着手し、環境関連事業の第一歩を踏み出した。現在では下水処理プラント、リサイクル機器およびプラント、バイオガス発電の事業を展開している。 「お客さまの要望と、自治体のインフラ整備のニーズに応えるために、研究や開発を行ってきました。日本にはない技術があれば外国企業と提携し、日本の実情にマッチするよう独自の改良を加えて導入しています」という大原さんは、大学卒業後に渡米し、現地の大学院で2年間学んだ後、日本に戻ってメーカーに就職。そこでものづくりの勉強をしてから同社に入社した。 「当時は古い体質の会社で、このままだと将来的に厳しいと感じ、活力のある職場づくりを考えるQCサークル活動やコンピューター処理システム、製品ごとの事業部制の導入など、さまざまな改革を行っていきました。今は次世代の仕事のやり方に経営を変えているところです。それには口を出さず、若い世代に任せていますが、弊社の社是『利は義の和なり』に基づき、利益先行ではなく思いやりを持ってお客さまと長くお付き合いをしていくとともに、社内では社員を公平に処遇していくことは変わらず続けていきます」
石油掘削用機械という創業当時からの事業を続けつつ、時代が求める環境関連事業にも果敢に突き進む。同社は一つの枠にはとどまらず、社会に役立つ技術の発展性をこれからも追求していく。
プロフィール
社名 : 株式会社大原鉄工所(おおはらてっこうしょ)
所在地 : 新潟県長岡市城岡2−8−1
電話 : 0258-24-2350
HP : https://www.oharacorp.co.jp
代表者 : 大原興人 代表取締役社長
創業 : 明治40(1907)年
従業員 : 160人
【長岡商工会議所】
※月刊石垣2024年11月号に掲載された記事です。