出資者を募り肥料販売を開始
森鉄工のある佐賀県鹿島市は、有明海と山に囲まれ、ミカンやコメの栽培、ノリの養殖、酒づくりなどが盛んな一方で、ものづくりのまちとしても知られている。森鉄工は明治37(1904)年に、鹿島市に隣接する現在の嬉野市で森曾一商店として創業した。 「曾一は庄屋である井上家の三男として生まれ、25歳のときに商家の森家に婿入りしました。森家には息子2人がいましたが、まだ子どもだったため、商売を曾一に任せるために養子にしたのです。曾一は10年ほどそこで店を経営していましたが、義弟が成人したこともあり、店の経営を義弟に返し、自分は独立して森曾一商店を始めたのです」と、同社の五代目で社長の森孝一さんは言う。
森家は江戸時代から肥料や鉄、セメント、反物などを販売しており、独立した曾一はその経験を生かした商売を始めた。中でも、世に出て間もない化学肥料の評判が良く、肥料製造会社の代理店となった。また、創業翌年に地域で開通した馬車鉄道の修理も請け負った。だが、大正5(1916)年に馬車の運行が廃止されると馬車修理の仕事がなくなってしまい、肥料販売に注力することにした。 「しかし、個人商店だったので資金に余裕がありませんでした。そこで曾一は、肥料を大量に仕入れて安く販売するため、多くの農家に出資してもらうことにしました。お金を集めるのには苦労したようですが、大正11(1922)年に森共同肥料株式会社を設立しました。それが当社としてのスタートになります」
製茶機の開発に着手
昭和5年、有明線(後の長崎本線)が開通し、隣の鹿島に鉄道駅ができたが、初代はそれを見越して鹿島駅前に土地を購入していた。そして、当時起こった世界恐慌や自然災害で農業が大損害を受けて肥料中心の経営が悪化していたことから、農業機械の販売と修理を始め、9年に鹿島駅前に支店を開設した。 「戦時中の19年には、農業機械を製造する会社の特約代理店となり、それに合わせて戦後の21年には森農工株式会社と社名を変え、農機具などの機械の製造、販売、修理を行っていきました。そのような中、23年には佐賀県からの要請で、地元・嬉野特産の釜炒り茶を効率的に大量生産できる製茶機の開発に着手し、森式製茶機の生産を始めました。これが機械メーカーとしての本格的なスタートでした」
31年には、下請けでモーター部品の製造を始め、後に四代目社長となる井上誠吾が入社した。井上は、初代の実家である井上家の出で、工場の管理を任された。
そして44年に三菱電機株式会社から資本参加を受け、社名を森鉄工株式会社に変更した。 「昭和40年代のニクソンショックやオイルショックで会社の景気が悪くなった頃、古くなったプレス機の買い替えが必要になり、Uターンで戻ってきた社員2人と生え抜き技術者の3人が協力して、油圧式製缶プレス機を完成させました。それで自信を得て、油圧プレスメーカーに事業の軸足を移していきました」
FBプレス機の開発に成功
「しかし、後発だったのでなかなかもうからない。そんなときに自動車部品のプレス加工メーカーから付加価値の高いファインブランキングプレス(FBプレス)の開発を勧められ、取り組み始めました。昭和55年のことで、翌年に1号機が完成しました」
FBプレスとは精密な打ち抜き加工を行うプレスで、それまでは欧州製の高価な機械を使っている工場がほとんどだった。 「欧州製のFBプレスは操作が難しく、カスタマイズもできませんでした。私たちはコンピューター数値制御で使いやすくすることに成功し、さらに顧客の要望に合わせた機械をつくっていきました。機械に不具合があったら技術者が駆けつけるなど、誠実に対応することで信用を得てきました」
現在ではFBプレスのほかにも他社にないプレス機械を開発し、国内だけでなく世界30カ国に輸出している。機械は顧客の要望に合わせて製造するため、商社経由ではなく直販で、リピートオーダーも多い。 「手塩にかけて育てた娘を嫁がせるようなもので、顧客とは親戚付き合いをしているようなもの。何か問題があったら、しっかり手直ししますとお伝えしています。当社は顧客のかゆいところに手が届く会社として、顧客が求めているものをつくっていく。その姿勢は、これからも変わりません」
肥料販売から農機具の修理販売、部品製造の下請け、そしてプレス機のメーカーに。業態は変わっても、同社は時代や顧客が求めるものに挑戦を続けていく。
プロフィール
社名 : 森鉄工株式会社(もりてっこう)
所在地 : 佐賀県鹿島市大字井手2078
電話 : 0954-63-3141
代表者 : 森 孝一 代表取締役社長
創業 : 明治37(1904)年
従業員 : 約130人
【鹿島商工会議所】
※月刊石垣2025年2月号に掲載された記事です。