塩羊羹(しおようかん)で有名な和菓子店「新鶴本店」は、御柱祭で知られる諏訪大社の下社秋宮の隣にある。1873年の創業以来、手間を惜しまない製法で一店舗主義を貫いている。後継者不足による廃業が顕著な和菓子産業の中、六代目店主となった河西正憲さんは、150余年の歴史ある代表銘菓の味を守り、未来につなぐ。
創業家が代々守り抜く 諏訪名物の塩羊羹
信州一の大きさを誇る諏訪湖。その北岸に位置する下諏訪町は、旧中山道と甲州街道が交わる温泉街・下諏訪宿として栄えたエリアだ。諏訪大社の下社秋宮が高台にどっしりと構えるまち並みは、今なお宿場町の風情を色濃く残している。
その下諏訪町屈指の和菓子店が新鶴本店だ。旅行ガイドブックには必ず掲載され、下諏訪土産といえば、まず新鶴本店の「塩羊羹」の名が挙がる。 「今はなき下諏訪の名旅館『つる屋』の次男だった初代・河西六郎が、自ら商売を始め、考案したのが塩羊羹と伝えられています。特産品の角寒天を使った羊羹に、海のない地域では貴重な塩を加えた『新鶴塩羊羹』は、多くの地元客や参拝客に支持され、今に至ります」
そう説明するのは、六代目店主で代表取締役社長の河西正憲さん。諏訪大社下社秋宮の目と鼻の先という恵まれた立地だが、意外にも来店客の半数は地元客だという。人気店でありながら支店はなく、地元の土産店にすら商品を卸していない。一店舗主義で150余年の歴史を刻む。代々、創業家による経営だが、三代目と四代目は婿養子が継いだ。 「その影響もあってか、四代目の祖父と五代目の父は、一度外で社会人経験を積んでから家業に入っています。父は東京育ちでもあったので、学校卒業後の私に家業入りを強いることはありませんでした。そもそも家業を継げと言われたこともありません。でも私自身、小学5、6年生頃の作文に、将来の夢は家業を継ぐことと書いています。姉がいるのですが、継ぐなら自分だと漠然と思っていたようです」
両親が元気なうちにと32歳で家業に入る
東京の大学に進学した河西さんは、その後就職し、国内金融機関の代理店担当営業として東京、埼玉、愛媛を転々とした。忙しくも充実した日々を送っていたが、30歳を過ぎて気付けば父親も60代。父親の前職の先輩が定年生活を謳歌(おうか)し、観光がてら来店したことや、父と同年代の取引先が体調不良で休んだことなど、親の年齢を意識する出来事が重なった。 「両親が元気なうちに何とかしたいと思い、今後について真剣に考えました。ずっと働き続けている両親から、店を引き継ぐのは自分しかいない。親が楽になればと、会社を辞めて2017年、32歳で帰郷しました。小豆の下処理などの下っ端仕事からのスタートです」