農機具から製茶機製造へ
静岡県南西部にある掛川市は、江戸時代には城下町として栄え、全国有数の茶どころとしても知られている。この地でエンジン部品や小型汎用部品を製造する藤田鐵工所は、藤田太作(たさく)さんが1914(大正3)年に農機具の鍛冶職を始めたことが原点となっている。
同社の四代目で社長の藤田哲男さんは、創業当初についてこう語る。 「祖父は当初、農家向けに鍬(くわ)や鎌をつくっていましたが、その後、製茶機の部品を手掛けるようになりました。さらには製茶機そのものをつくるようになり、昭和初期には、茶葉を粗くもむ工程を効率化する『藤田式製茶粗もみ機』を考案しました。ただ、1年のうち製茶の時期は短く、繁忙期以外は受注がない。そこで、製紙業が盛んな富士市の工場向けに部品を製造するようになりました」
戦時中は、軍需工場の専属となり、航空機用の部品を製造するようになった。一方で息子の清作(せいさく)さんは召集を受けて海兵団に入隊すると、硫黄島に送り込まれた。その後、米国軍の攻撃で2万人近い日本軍兵士が戦死したが、清作さんは奇跡的に生き延び、終戦の5カ月後に帰国した。この戦いで、日本軍は玉砕したと伝えられており、突然の帰還に家族は驚いたという。 「終戦後は国鉄(現JR)の仕事をするようになり、名古屋鉄道局などからの依頼で機関車の部品を製造していました。その後、オートバイが普及すると、メーカー各社の部品を製造するようになりました。そして、1951年に工場を株式会社藤田鐵工所に法人改組すると、私の父である清作が初代社長に就任しました。またその後、掛川商工会議所の会頭も6期12年務めました」
顧客分散のため海外とも取引
55年には、戦時中に専属となっていた軍需工場の会社がオートバイメーカーを創設したことから取引を開始。エンジンのクランクシャフトやコンロッド(ピストンとクランクシャフトをつなぐ部品)などの重要部品を製造した。 「さらに、重工業や自動車など大手製造企業との取引を始め、事業が拡大していきました。また、国内だけに依存せず、顧客を分散させるために、73年からは海外企業との取引も進めました。当時は、海外輸出量を全体の3割にしたいと考えていました」