裸一貫から年商6億円企業に
鹿児島県北西部の天草灘(なだ)に面し、古くから漁港として栄えてきた阿久根市に、はしコーポレーションはある。1912(大正元)年に海藻、サツマイモ問屋として創業し、現在は飲食関連をはじめエネルギー、宿泊サービス、生活サービスといった複数の事業を行っている。
「創業者の枦(はし)庄右衛門は私の祖父で、私で三代目になります。祖父は裸一貫で個人商店を始め、昭和に入るとでんぷん工場を立ち上げました。戦後には枦産業合資会社を設立し、1960年には県内にでんぷん工場11カ所、水あめ工場1カ所にまで拡大し、ピーク時には資本金5千万円、年商6億円にまで発展させていきました。従業員も450人ほどいたそうです」と、はしコーポレーション取締役会長の枦壽一さんは言う。
サツマイモやジャガイモ、トウモロコシなどから生産されるでんぷんは、戦後の食糧不足を補う代替エネルギー源として重宝され、さまざまな食品の原料として利用されてきた。しかし、昭和40年代に安価なコーンスターチが大量に輸入されるようになり、でんぷん産業は急激に衰退していった。枦産業も、でんぷん工場を次々に閉鎖せざるを得なくなっていた。
「私の父は3人兄弟の末っ子で、上の2人はそれぞれ独立して別の会社を設立し、父が祖父の後を継ぎました。そこで父は、今後の燃料需要の変化と車社会を見越し、1967年に石油製品とプロパンガスの販売を始めたのです。上の2人の兄弟は次の代で事業をやめていますが、うちだけが生き残ることができました」
事業の多角化を進める
枦さんが東京の大学から地元に戻り、枦産業に入社後しばらくしたころ、二代目社長である父の枦庄吉さんは県会議員となり、会社の業務は幹部社員や、入社して間もない枦さんに任されることになった。
「私が20代半ばのころでしたが、1974年に和洋レストラン『海洋ランド阿久根』、76年にはうどん屋『麺処はし』を始めました。レストランは7年ほどで閉めましたが、うどん屋のほうは今では5店舗展開しています。85年に私が枦産業の社長を継ぐと、さつま揚げの製造・販売を始め、2005年には市の農業特区制度を利用して農業にも参入しました」
