野生動物を中心に、哺乳類や昆虫、魚類や恐竜……。果てはゴジラなどの怪獣まで躍動的に表現する、生き物フィギュアの第一人者・松村しのぶさん。生き物への深い造詣と、独自の視点が際立つ造形に、子どもから大人までファンは幅広い。巨匠の域に達する今もなお、未知のやりたいことに全力投球し続ける。
生き物に関わることをしたいその気持ちを軸に造形の道へ
おもちゃが入っている卵形のチョコレート「チョコエッグ」(フルタ製菓)。価格度外視ともいえるおもちゃのクオリティーに、1999年の発売と同時に、子どもだけではなく大人も沸き立った。今や食玩を代表するロングセラーだが、このブームの火付け役が初回の「日本の動物コレクション」を手掛けた、造形家の松村しのぶさんだ。
「子どもの頃から、生き物関係の仕事がしたいという漠然とした思いがありました。それも動物園の飼育員というより、クジラなどの野生動物の研究員のような仕事。でも、今みたいにネットで情報が集められる時代ではありません。東京に出れば何とかなるだろうと上京しました。しかし、結局分からずじまい。運良く新聞記者の弟子入りのような形で、生き物関連の記事を書くライター職に就けました。都内高尾山からボルネオ島までいろいろな所へ取材に行き、絵も得意だったので動物のイラストを描き、常に生き物関連の最先端の情報が飛び交う環境下で、自然と知識も経験値も上がっていきました」
探究心、向上心が旺盛だった松村さんは、同世代が活躍するフィギュア業界にも関心を寄せた。テレビや映画などのキャラクター造形が主流の中、動物フィギュアも手掛ける造形集団を見つける。それが海洋堂だ。今や国内フィギュア制作のパイオニアかつ最大手の造形メーカーだが、当時は黎明期。自身のフィギュアの力量を試してみようと、松村さんは海洋堂に恐竜とクジラ、絶滅した古生物の3体をつくって売り込みに行った。結果は門前払い、ではなくその逆だったが、松村さんの気持ちがなえて、作品を置いて帰ってしまったという。
独創性と圧倒的な知識量でフィギュアの歴史を塗り替える
「月の半分は大阪本社への出張があり、造形以外の雑務もいろいろあると聞いて、やりたいことと違うなと思って身を引きました」と苦笑する。だが、〝置き土産〟の作品を、海洋堂が放っておかない。翌日、今度は同社の中核メンバーと直々に面談することになり、条件を擦り合わせて入社が決まった。
「何でもやりますと下手に出ずに、交渉したのを覚えています。海洋堂は、当時から作り手の個々の作家性を大事にする社風で、野生生物に特化した造形に、打ち込める環境を用意してくれました」
1987年、25歳にして造形家に転身した松村さんは、造形の腕をメキメキと上げていった。その腕前が高く評価され、91年、ニューヨーク自然史博物館から恐竜の復元モデルの依頼が海洋堂に入ると、松村さんに白羽の矢が立つ。制作したのは同館の玄関に飾る35分の1のアロサウルスVSバロサウルス。難易度が高そうな依頼だが、松村さんはひょうひょうとこう語る。
「恐竜の正解なんて誰にも分かりません。それでいて人気がある不思議な生き物です。学術的なリアリティーより、インパクトを求める博物館に共感し、4本足のバロサウルスが後ろ足2本で立って、アロサウルスを威嚇している姿を製作しました。立てるのか、そもそも戦うのかも分かりませんけどね」
作品は国際的にも高い評価を得たが、「生活は変わらなかった」と松村さん。むしろ8年後の99年、チョコエッグの発売が、造形家人生の大転換期だったと振り返る。
「依頼が入る少し前、海外のお菓子で『ヤウイ』というチョコの中にオーストラリアの動物が入っている食玩を見たことがありました。社内で『改善点はいろいろあるけれど、発想が面白い』と話していたこともあって、チョコエッグのメーカーから新シリーズの依頼があった際に『あの感じでいければ……』と思いました。それで中に入れる日本の動物フィギュアの選定から一任されました」
