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100年経営に極意あり!長寿企業の秘密 本物の味と技を発信し続ける 日本一古いあめ屋」

髙橋孫左衛門商店

新潟県上越市

十返舎一九も絶賛した味

上越市の高田地区は、豪雪地帯として知られている。それを象徴する物として有名なのが、雪よけのためにつくられた「雁木」だろう。町家が軒を連ねる表通りは、冬の降雪時に道路を確保するために家々がひさしを延ばしている。「雁木」は、明治以降減少したが、ここ高田には今も総延長16㎞にもおよぶ日本最長のものが残っている。

雁木が続く古い商店街に、「日本一古いあめ屋」の髙橋孫左衛門商店がある。店の始まりは、寛永元(1624)年。以来、北国街道沿いの現在の地で「あめ屋」を営んでいる。「初代髙橋孫左衛門は福井の松平忠直の家臣で、忠直の子・光長に従って、この地に移ってきたと聞いています。福井は、あめづくりが盛んで、村ごとにあめづくりをするほどでした。初代は、そこであめづくりを学んだようです。そして城勤めは嫡子に任せ、あめ屋を始めたといいます」と創業の由来を話すのは十四代目の髙橋孫左衛門さんだ。

今も「粟飴」という商品名に残るように、最初は粟が原料だったが、寛政2(1790)年、四代目が原料をもち米に変えた。「そのことで、癖の無い、透明感のある琥珀色の水あめができたのです。以来、今日まで製法や味は変わっていません」(髙橋さん)。

粟飴は、十返舎一九の作品にも登場している。文化11(1814)年、高田の地を訪れた一九は当時の孫左衛門家に世話になり、『方言修行金草鞋』の中にこう記している。「横春日町というに、粟にて製したる水飴、いたって上品にて風味よく、このところの名物なり」と。文中には〝粟〟とされているが、すでに原料はもち米だったのではないかという。

「粟飴」を白く練って、乾燥したクマザサの葉にはさんだものが「笹飴」。この笹飴も、文学作品に登場している。夏目漱石の『坊っちゃん』に「清が越後の笹飴を笹ぐるみむしゃむしゃ食べている。笹は毒だ、よしたらよかろうと言うと此の笹は御薬で御座いますと言つてうまそうに食べて居る」というくだりがあるのだ。

皇室にも長く愛される

髙橋孫左衛門商店は、皇室とのつながりが深い店としても知られている。明治11(1878)年、明治天皇は北陸巡幸の折、「粟飴」を気に入り、自ら土産として買い求めたという。このことが、ドナルド・キーンの『明治天皇』の中でも紹介されている。「明治天皇は高田の名産である翁飴、水飴などを買い上げ、長野産の菓子とともに皇后、皇太后に贈った。この振る舞いは土地の人々を喜ばせたに違いない。あめは貢物としてもらったのでなく、天皇が自ら買い求めたもの。ヨーロッパの君主であれば、考えられないことだった」と。以降、皇室への献上品となり、皇族にもなじみが深いあめなのだ。

徹底的に〝あめ〟にこだわる

長い歴史を積み重ねてきた髙橋孫左衛門商店も、常に順風満帆だったわけではない。最も深刻な危機は、昭和18〜25年ころだ。あめ製造に使う鍋釜類は供出され、材料は統制の下に置かれた。第2次世界大戦と戦後の混乱で商売どころではなく、7年もの間、あめづくりは途絶えた。

「私は20年の生まれですから、幼いころ、現在の駐車場にあった建物をパチンコ屋さんやパン屋さんに貸していたことを覚えています。その後、いろいろな人の協力があり、商売を再開できました」

代々続いてきた孫左衛門の名に髙橋さんが改名したのは、先代が亡くなった61年のこと。髙橋さんが41歳のときだった。十四代目を継ぐことは、幼いころから自然に刷り込まれ、すんなりと受け入れられたわけではない。

「高校生のころは、店を継ぐ以外の道もあるのかなと漠然と考えていました。そして、大学を卒業すると、親には内緒で就職も決めたのです。その就職先も和菓子屋でしたけれど。しかし、親の反対を受け、専門学校に入り直し、横浜と東京の菓子屋で一年間修業してから、実家に戻りました」

髙橋さんがまず考えたのは、商品数を増やすことだった。しかし、あめ屋なのであめにこだわるしかない。とはいえ、新商品を出しました、売れないから撤退しますでは、由緒ある孫左衛門商店としては許されない。そこで、徹底的にこだわって出来上がったのが、水あめに寒天と抹茶を加えて固め、最中に挟んだ「くびきの里」。発売して40年、今では立派な定番商品となった。さらに10年ほど前、桜の葉の塩漬けを加えた季節限定の「桜花くびきの里」もその延長線上に生まれ、親しまれている。

「(先人から)お客さまに感謝して仕事をしろ、という家訓のようななものがあります。あめで商売をさせてもらっていますから、常にそのことは頭にあります」

創業の地で商売を続ける

髙橋さんが大事にしていることに、東京や横浜のデパートでの催事がある。年に2、3回、必ず参加するようになって、40年以上になる。「そこではお客さまとの触れ合いがあります。新たな〝出会いの場所〟といってもいいと考えています。商売を続けていくためには常に新しいお客さまと出会っていかなければなりませんから」。

高田のまちも空洞化が進み、中心部から人や店が消えていっている。しかし、この場にこだわり続けると髙橋さんは言う。

「一時は移転も考えました。しかし、創業の地で営業し、ここから本物の味と技を発信していく。そしてここにお客さまに来ていただく。そうしていくのがよいと今では思っています」

北陸新幹線の開通で、新駅・上越妙高駅ができ、高田もこの春、にぎわいを見せている。しかし、「どうすればこの地に滞在してもらえるか、よほど考えないと単なる通過地点になってしまいます」と髙橋さんは話す。だが、高田には雁木で名高いまち並みがある、高田城の桜がある、そして、「日本で最古のあめ屋」がある。高田は、今新しい歴史を刻み始めている。

プロフィール

社名:株式会社 髙橋孫左衛門商店

所在地:新潟県上越市南本町3-7-2

電話:025-524-1188

代表者:髙橋孫左衛門 代表取締役 (十四代目)

創業:寛永元(1624)年

従業員:9人

※月刊石垣2015年5月号に掲載された記事です。

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