四国のまん中にある〝屈指の工業都市〟
四国中央市は、愛媛県の東端部に位置し、平成16(2004)年に、川之江市、伊予三島市、土居町、新宮村の2市、1町、1村が合併して誕生。人口8万7000人ほどのまちである。東は香川県と徳島県、南は高知県と、愛媛県で唯一他の3県に接する。また地図上の位置がおおよそ四国のまん中であることが市名の由来になったという。
市域の南側には切り立った法皇山脈があり、北側は瀬戸内海に面した平野部となっている。その山と海に囲まれた平野部は狭いという地形的特徴から、低気圧の中心が日本海を通過する際には、法皇山脈の斜面を平野部めがけて吹き降りる日本三大局地風の一つ「やまじ」で吹き荒れる。普段は穏やかな瀬戸内式気候の本市も、このときばかりは強風にさらされる。
また、四国4県の高速道路が交わる「エックスハイウェイ」の結節点にあり、4県の県庁所在地のいずれにも車で約1時間の距離という交通の要衝でもある。
こうした特徴を持つ本市が所在する愛媛県東予地域は、本県製造業の約70%が集中している工業地域だ。その業態は三つの産業集積に大別できる。一つは今治市を中心とする「造船業」「タオル製造業」。二つ目は新居浜市、西条市を中心とする「重化学工業」。そして三つ目は本市を中心とする「パルプ、紙、紙加工品製造業」である。
本市を象徴する風景を見ると、狭い平野部に工場と住居が建ち並び、その中央に白い煙がなびいている大きな煙突が存在する。いずれも日本を代表する製紙会社の工場の煙突だ。
「当市では、〝紙幣〟と〝郵便切手〟以外の紙のほとんどを生産しています。三島公園からの(写真の)風景は、当市の活力を表しています」と語るのは、四国中央商工会議所の井上治郎会頭。
実は本市は、「パルプ、紙、紙加工品製造業」の市町村別製造品出荷額が日本一のまちなのだ。
逆境が生んだ先人たちの思いが紙産業発展のきっかけ
わが国に製紙技術が伝わったのは、610年ごろ。中国から朝鮮半島を経由して伝来した。その後、本格的な紙の国産化(和紙の生産)が行われるようになったのは、『正倉院文書』によれば、天平9(737)年ごろからで、出雲(現在の島根県東部地域)、美作(同岡山県北東部地域)、播磨(同兵庫県西部地域)、美濃(同岐阜県南部地域)、越(同福井県敦賀市から山形県庄内地域の一部)などで和紙の生産が始まったと記されている。それは製紙技術が伝わってからおよそ100年たってからのことである。
当初、原材料には麻が使われていた。その後、さまざまな改良により、取り扱いが容易で増産に適した日本在来の植物繊維である楮(こうぞ)や三椏(みつまた)などを原材料とする手すき和紙が生産されるようになっていった。ただ当時の和紙の生産量はまだ少なく高級品・貴重品であったため、日常的に使用されることはほとんどなかったといわれている(一般的な用途には、安価で丈夫な木簡が使用されていたようである)。
平安京が遷都された延暦13(794)年の後、大同年間(805~809年)になると、朝廷で用いる紙の製造を担う機関(官立の製紙工場のようなもの)として「紙屋院(かんやいん、しおくいん)」が設置された。ここで日本独特の製紙法である「流し漉(す)き」の技術が確立したとされる。この「紙屋院」は、14世紀中ごろの南北朝期には廃止されたが、各地の山々で和紙の原材料となる楮や三椏を比較的簡単に入手できたため、その技術を生かして各地で和紙が生産されるようになった。
時代が進み江戸時代になると、各藩が産業振興策の一環として、手すき和紙の生産を農家の農閑期の副業として奨励した。これが特定の地域を産地とせずに、全国に産地が広がった要因の一つにもなっている。このような状況のもと、伊予国(現在の愛媛県)は、石見国(同島根県西部地域)、土佐国(同高知県)、美濃国(同岐阜県南部地域)、駿河国(同静岡県中部・北東部地域)、越前国(同福井県嶺北地域)などと並んで重要な和紙の産地とされた。
本県内の手すき和紙の三大産地は南予地域の大洲と宇和島、そして宇摩郡(現在の本市付近)であった。本市(付近)で生産が始まったのは、今から260年ほど前の江戸時代中期、宝暦年間(1751〜1763年)ごろまでさかのぼる。山あいの数戸の農家が自生の楮や三椏などを原料に和紙を生産したことが里に伝わり、農家が副業にした。これは本県外の他の産地(たとえば阿波和紙1400年や土佐和紙1000年の歴史)と比べると後発であった。
明治時代に入ると、前述の本県内三大産地のうち、藩の保護政策、奨励・振興策を受けて発展してきた大洲と宇和島が保護政策などが無くなったことから、次第に衰退。一方、本市(付近)は藩の保護政策を受けていなかったという逆境から、事業者に自立心・独立心・探究心などが培われ、こうした心持ちが、現在まで続く発展の下支えになったといわれている。そして明治時代後期には、手すき和紙の生産戸数は750戸に達し、全盛期・黄金期を迎えた。
並行して、明治時代にはヨーロッパから〝機械抄紙技術〟がもたらされ、各地に近代的な製紙工場が建ちはじめていた。
「手すき和紙の産地の中には、機械抄紙技術の導入に失敗し、徐々に衰退していった地域もあります。当市は機械抄紙技術の導入に成功した地域の一つです。その要因は、製紙技術の研究に一生を捧げ〝紙聖〟と称えられる篠原朔太郎などの先人たちの存在や、銅山川疎水事業による豊富な工業用水の確保および三島川之江港などのインフラが整ったことなどで、今日の礎になっています。また大都市圏から遠く、輸送費がかさむなどの不利な条件があるにもかかわらず、先人たちから受け継いだ自立心・独立心・探究心などにより、高付加価値製品の製造を追求し、他産地との差別化を図ってきたことが、当市紙産業の特徴です。現在も革新的先端材料として注目のセルロースナノファイバーの研究開発が進んでいます」(井上会頭)
紙産業の未来を担う若者の育成・定着を目指して
このような日本一の産業を有する本市であるが、将来に対する不安もあるという。
「産業の永続性を考えた場合、人口減少により将来的に労働力が確保できるかどうか不安です。そのために若者が定着してくれるような、にぎわいのあるまちづくりが必要だと思います。現在は旧川之江市と旧伊予三島市のお祭りなどが、歴史的背景からバラバラに行こなわれています。今後これらに、どのように一体感を持たせ、当市全体のにぎわい創出につなげていくかが課題です」(井上会頭)
これとは別に、若者の定着に向けた取り組みや子育て世代への支援が行政と本所会員企業などの協力によって、既に始まっている。
「地元の愛媛大学が、22年4月に全国初の紙産業に特化した大学院を当市に開校し、現在、数人の大学院生が学んでいます。28年4月に同大学に新設された社会共創学部紙産業コースの3・4年生(約20人。現1年生が3年生になる30年4月から)が、当市のキャンパスで学ぶことになっています。ともに人数は多くありませんが、大学院や学部の学生が一人でも多く地元企業に就職してくれることを期待しています。地元企業の求人意欲は高く、高校生の就職率はほぼ100%。希望すれば就職できる水準です。また、子育て世代には、行政と会員企業が協力し、赤ちゃん用の紙オムツを無償で提供しています。女性の就業率は高く、かつ比較的長く勤める方が多いのも特徴の一つです。当社の場合ですが、社員の40%ほどが女性で、子育てしながら働いているお母さんたちもたくさんいます。
当市は立地的に山と海が近いことから、一日あれば、海釣りとハイキングなど水陸両方のレジャーが楽しめます。特に山には、きれいな水が流れる渓谷があり、夏場のキャンプには最高です。こうした環境は子育てに最適だと思います」と語る井上会頭。
加えて紙産業についても「当市には、言わずもがなさまざまな紙関連事業が存在しています。そのため同事業の起業も可能です。興味・関心がある方は、ぜひ当市で起業してください」と呼び掛ける。本市は関係者の努力により子育てと就業・起業の環境が揃っているまちである。
にぎわい創出に向けた商店街の挑戦
多くの商店街でみかける空き店舗。〝日本一の紙のまち〟である本市の「川之江栄町商店街」でも、残念ながら空き店舗は存在する。しかし、その中で子どもたちの元気な声が聞こえる店舗に出合った。
「きっかけは16年の合併でした。記念イベントとして、まちのことを知らない人たちに何かできないかとの思いから、情報発信基地〝四国中央.com〟を、空き店舗(2階建て)を活用して立ち上げました。当初1階には、まちの写真をパネル展示などしましたが、その後レンタルボックスという棚をつくり、まちの人たちがつくった手芸品などの作品を展示販売しました。これが評判となり利用者が増えました。その後、それがきっかけで知り合った方々による手芸教室などが行われるようになり、次第に交流の輪が広がっていきました」と当時を振り返るのは、呉服屋の四代目で同商店街の理事長を務める髙原茂さん。
「一方で2階は空いたままでしたので、赤ちゃんを持つお母さん方に商店街に立ち寄っていただくきっかけづくりのために、19年に少子化対策の国の補助金を使って整備しました。保育士の方に常駐してもらうと、口コミでその情報が広がり利用者が増えました。1階はシニア層が、2階は子育て層が集う場になりましたので、コラボ事業などを企画し、世代間交流に努めました」(髙原理事長)
「また、当市には全国規模の企業があるため、転勤で当市に来られる方もいます。〝四国中央.com〟は、そうした方にまちを知ってもらい、地元の方と交流できる場でもあります。特に小さいお子さんがいる転勤族のお母さんたちには、お子さんをちょっと預けて、当商店街で買い物を楽しんでもらうこともできます。まちのにぎわい創出に向けて、これからも頑張ります」と力強く語る髙原理事長。
本市の名産品で慶事に使う水引のように、人々の結びつきを強める活動が、これからも展開される。
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