交通の要衝としての存在感
佐野市は北関東を東西に横断する国道50号と関東地方から東北地方を南北につなぐ東北縦貫道路が交わり、各方面へアクセスしやすい交通環境である。また、東北自動車道・佐野藤岡インターチェンジに加え、北関東自動車道・佐野田沼インターチェンジや東北自動車道・佐野SAスマートインターチェンジなど市内に複数のインターチェンジを持つ立地条件を生かし、交通の要衝として北関東の玄関口となっている。
鉄道では、東西に走るJR両毛線が佐野市と小山市・足利市方面とを結び、東武佐野線は館林市を経て東京へとつながる。また、高速バス新宿線、東京線により首都圏と直接結ばれている。市内には市街地と新都市を循環するバスが運行しており市民の身近な交通手段となっている。このような好立地を生かし産業振興や基盤整備を進め、人と人との交流を図ることで北関東の新中核的都市を目指している。
佐野商工会議所の島田嘉内会頭は「戦後、当地域は『両毛の谷間佐野』と呼ばれていました。足利・佐野・栃木の中では発展が遅れたのです。しかし、東北縦貫道路ができて交通の便がよくなり良い方向へ流れが変わりました。その後、複数のインターチェンジができ工業団地への誘致が進みほぼ埋まっています。現在は、佐野プレミアムアウトレットなどがある佐野新都市に人が来ているのですが中心市街地に人を呼び込めていない状況です。佐野は工業団地が先に発展してきたため、まちなかの発展が遅れたのです。交通の要衝としてこれから対応を考えていく必要があります。昨年、市が中心市街地にある東日本大震災で傷んだ市庁舎を建て直しました。また、まちづくり会社を設立し中心市街地に人を呼び込むための措置を検討しています」と話す。
発展を支える産業と観光
佐野市の産業は、伝統的な石灰・繊維・鋳物から、プラスチック製品製造業の時期を経て、機械・食品へと推移してきた。そのため業種がさまざまであり景気の変動の影響を受けにくい。佐野工業団地、羽田工業団地、田沼工業団地、佐野インター産業団地、佐野みかも台産業団地の5つの工業団地を拠点に、基盤整備の進行による産業活性化を推進している。首都圏の一角に位置することや、国道50号や国道293号をはじめとする道路網が整備され、立地条件および産業基盤整備の向上が期待されている。商業面では、佐野新都市地区に大型商業施設の佐野プレミアムアウレットやイオンショッピングセンターが進出したことにより、新しい商業地域が形成された。
「佐野は唐沢(からさわ)山をはじめとする山々に囲まれており、利根川・渡良瀬川・秋山川・旗川と川に挟まれ自然豊かな地域です。市内には佐野厄除け大師、佐野プレミアムアウトレット、唐沢山城跡、さのまる、佐野ラーメン、いもフライ、いちご、梨が当地域の観光・物産として産出されるようになり、県内の入込客数では宇都宮、日光鬼怒川、那須塩原につぐ4位という状況です。佐野はふるいまちでありながら、戦乱・闘争に巻き込まれることはなかったため、人心が穏やかで協調性がある人々が多いまちです」(島田会頭)
佐野の始祖、藤原秀郷
佐野の始祖といわれているのが藤原秀郷(ひでさと)だ。平安時代初期から中期にかけて活躍した武将である。田原藤太(俵藤太)と呼ばれることもあり、平将門の討伐などその武勲が知られる。『吾妻鏡』『俵藤太物語』『俵藤太絵巻』などで智将としての一面や大むかでを恐れぬ勇気と弓の名手であることが描かれ大衆に広く親しまれた。延長5(927)年に下野国(栃木県)の警察にあたる押領使(おうりょうし)に任ぜられ唐沢山に城を築き善政を施した。
「佐野」の地名が、記録上、初めて登場するのは、平安時代の荘園名である「佐野庄」という記述である。「兵範記」という当時の記録には、左大臣藤原頼長に寄進されていた荘園が、保元の乱(1157年)で勝利した後白河天皇の所有になったことが書かれている。佐野庄は後白河天皇の側に立った藤原秀郷の子孫と称する藤姓足利氏(後の佐野氏)とその一族によって治められた。源頼朝が挙兵すると、佐野氏は頼朝とともに、源平合戦や奥州平泉の藤原氏討伐に従軍し、鎌倉幕府から御家人として認められる。さらに、南北朝の動乱が起こると、佐野氏一族は北朝方と南朝方に分裂した。
室町時代になると、北朝方についた佐野氏は関東地方北部を治めた古河公方に代々仕え、この地域を支配したが、やがて一族のなかから有力なものが戦国大名佐野氏に成長した。戦国時代末期、佐野氏は、現在の佐野市とその周辺を支配し、その拠点になったのが唐沢山城である。佐野は交通の要衝にあるため、越後の上杉氏や相模の北条氏などにも攻められ、改修が加えられた結果、高石垣を備えた関東でも有数の山城になった。
江戸時代になると唐沢山城主・佐野信吉は、佐野城(現・城山公園)の地に移城するよう幕府から命じられ、さらに慶長19(1614)年所領も没収され、佐野氏の支配は終わりを告げた。信吉の改易以後、佐野地方は幕府の直轄地となり、元和2(1616)年譜代大名・本多正純の領地となるが、同8年正純も改易され、再び幕府直轄地となる。その後、彦根藩、古河藩、館林藩などに統治されたが、やがて堀田佐野藩や対馬藩、多くの旗本知行地に分割統治された。
明治2(1869)年政府は、各大名に命じて領地を天皇に返上させ、藩主を知藩事に任命し、さらに2年後には藩を廃止して県を置いた。そのため彦根県や佐野県ができたが、わずか4カ月で栃木県に統合。そして、明治22(1889)年に市制・町村制が施行され、現在に繋がる原型となった。平成17年2月、佐野市、田沼町、葛生(くずう)町の1市2町が新設合併し、現在の佐野市が誕生した。
スポーツで観光客を呼び込む
「英国・豪州・インドなどの英連邦諸国で盛んな球技」「競技人口はサッカーに次いで世界第2位」「フェアプレーを重んじる紳士・淑女のスポーツ」と聞いてどんなスポーツを思い浮かべるだろうか。答えは「クリケット」である。
クリケットは、英国、オーストラリア、インド、南アフリカ、西インド諸島などの英連邦諸国を中心に大人気で、世界の競技人口はサッカーに次いで第2位といわれる。特にインド、パキスタン、スリランカ、バングラデシュなどの南アジア諸国では、圧倒的な人気を誇る。クリケットの世界最高峰の大会は、4年に1度開催されるワールドカップで、数億円の年収を稼ぐスーパースターたちが、10万人規模のスタジアムで試合を行う。テレビの視聴者数は、15・6億人に上り、単独のスポーツイベントとしてはサッカーに次ぐ規模なのだ。
試合は投手(ボーラー)が投げたボールを打者(バッツマン)が打ち、打ったボールがフィールドを転がる間にバッツマンが走って点を重ねる。1チーム11人の2チームで行い、それぞれが交互に守備と攻撃を1回ずつ行う。10アウトまたは規程投球数で交代(規程投球数は大会によって異なる)。正式な試合では、各チーム120球ずつの形式 (T20形式)と、300球ずつの形式(ワンデー形式)が主流となっている。試合時間は、T20形式で約3時間、ワンデー形式で約7時間になる。勝敗は後攻チームが逆転した時点またはイニングが終了した時点で得点が多いチームが勝利となる。
そのクリケットの日本協会が佐野市にあるのだ。同所もクリケットによるまちづくりを特別重点事業に掲げ「東アジア男子クリケットチャンピオンシップ佐野・佐野英国祭」開催を支援している。佐野を日本におけるクリケットのふるさとにすべく活動しているのだ。
「栃木県は数々のオリンピックメダリストを輩出するなどスポーツが盛んな地域です。日本クリケット協会は佐野にあります。クリケットはサッカーについで世界で第2位のスポーツ人口と言われています。それなのになぜ日本でやらないのかと。それなら佐野でやろうと商工会議所も応援しています。クリケットを通じて英国などと交流があります。英国公使、パキスタン大使も佐野を訪れています。インバウンドを考えてもクリケットを通じまちの発展につなげたいですね」(島田会頭)
まちづくり株式会社を設立
同所では昨年10月2日、島田会頭を代表取締役社長とする「さのまちづくり株式会社」を設立した。設立にあたり同所は佐野市、市内金融機関、佐野JA、佐野青年会議所と協力している。
「佐野は現在、交通の要衝として大変重要な場所になりました。そして、佐野プレミアムアウトレット、佐野厄除け大師、佐野らーめん、市のキャラクター『さのまる』、クリケットのまち佐野など、話題を発信のできるまちになってきています。しかし一方、市内中心部は依然として電信柱が両側にある、昔ながらの通りです。このような中、市役所の新庁舎が完成しました。そしてメイン通りである県道桐生岩舟線の拡幅、市道1号線の整備事業などが進められています。まちづくり会社は、市内の空き店舗や空き住宅の活用、そして定住人口の増加、また、アウトレットやイオンにおいでのお客さまを市内に呼び込む事業を行うものです。そして、『住んでよし、訪れてよし、働いてよし』のまちにしていきます」(島田会頭)
これからのまちづくり
交通の要衝として発展し、中心市街地への人の流れをつくり出そうとする佐野。これからのまちづくりについて島田会頭は「佐野のまちづくりを行政と一体となって取り組んでいきたいです。そしてクリケットの普及推進、会員企業への補助金などの情報提供を行います。プレミアム商品券は昨年、プレミアム率2割、今年は1割という割合で国・市の補助で発行し、2時間で完売しました。まちの活性化には求められていることだと思います。また、茨城・栃木・群馬の三県商工会議所交流会議では高崎〜小山を結ぶ両毛線、高崎〜水戸を結ぶ水戸線が利用されていないという課題が出ました。そこでこの2線を整備しようという働きかけをしています。災害が起こった際の東京のバックアップ機能として、東京〜八王子〜高崎〜水戸〜東京をつなぐことの必要性を訴えています。これからさまざまな業界と一体となってこれらに取り組んでいきたいです」と佐野のまちづくりの将来像を語ってくれた。
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