大鳴門橋開通で高まる存在感
鳴門市は人口約6万人。県内では徳島市、阿南市に次いで3番目に多い。「渦潮」に代表される観光資源に恵まれた地域だ。また、同時に長い歴史を持つ地域でもある。7世紀の大化の改新で国・郡・里の制度が整えられたころ、市域は阿波国板野郡に属していたという記録も残っている。室町時代から戦国時代にかけては細川氏、三好氏が阿波を支配。市内には木津城・土佐泊城などが築かれた。その後も天正13(1585)年に、蜂須賀家政が領主となり妙見山上に撫養城(岡崎城)を築くなど、この辺りはその城下町として発展してきた。
同市は四国の東部、徳島県の東北端に位置している。鳴門海峡を隔てて淡路島に対峙しており、昭和60年に鳴門海峡の最狭部を結ぶ大鳴門橋が開通。平成10年に明石海峡大橋と神戸淡路鳴門自動車道が開通したことにより、本州とつながり、四国の東玄関となっている。また、14年に高松自動車道、27年には四国横断自動車道が開通。四国・本州の交流拠点都市としての存在感はますます高まっている。
北部は瀬戸内海国立公園に指定されており、渦潮が観測できる絶好のポイント。美しい瀬戸内の海が広がる絶景は多くの観光客を呼び寄せる。市内には、ドイツ館や大塚国際美術館などの人気スポットも多く、県内屈指の観光地としての地位を確立している。
また、豊かな漁場を抱え、海の幸に恵まれていることに加え、サツマイモの高級ブランドとして知られる「鳴門金時」やレンコンなどの農産品も有名。食の宝庫としても知られる。国の伝統工芸品である「大谷焼」など伝統産業も発展。明治以降は、医薬品を中心とした化学工業が盛んになり、現在では、大塚製薬グループの関連企業なども多数立地している。
鳴門商工会議所の中岸敏昭会頭は「鳴門市は奈良時代から交通の要衝として栄えてきたまちです。人びとは都から船で鳴門へ渡って来ました。四国八十八カ所霊場も鳴門市からスタートしています。まさに四国の玄関口と言えるでしょう。それだけでなく名産もたくさんあります。『鯛』『ワカメ』『サツマイモ』『塩』などは全国的にも高い評価をいただいています」と語る。
塩で栄えた徳島藩
中岸会頭はまちの歴史を振り返ると「16世紀末に蜂須賀家が領地をもらい徳島藩ができたこと」が現在の鳴門市にとって非常に大きかったと分析する。
「この地域に来る前、蜂須賀家は播磨国龍野(現在の兵庫県たつの市)の城主でした。隣の赤穂藩が塩づくりをして栄えているのを知っていたのです。そこで蜂須賀家は、この鳴門で塩田をつくることにしたのです。そのおかげで江戸時代には塩田のまちとして栄えます。徳島藩は鳴門では塩、西側の地域では砂糖、吉野川地域では藍をつくらせていました。そうしたこともあり、徳島市は明治初期には全国で10番目の人口だったほど栄えていたと言われており、財政も豊かだったようです」(中岸会頭)
鳴門から塩、藍玉を大阪などへ輸送していた。また、北前船(江戸時代から明治時代にかけて活躍した買い積み運送船)を通じた交易も盛んだったという。
「北前船は下関を経由して北海道へ行き、その後鳴門へと戻ってきます。そこで徳島藩は北前船を利用して北海道からニシンを仕入れていた。驚いたことにそのニシンを食べるのではなく藍の畑の肥料にしていたのです。このことからも当時の徳島藩の豊かさがうかがえると思います」(中岸会頭)
明治時代には交通手段の主役が船から鉄道へと変わっていく。陸路の交通が主になってくることに伴い企業も流入してきた。
「明治時代には浜松で薬をつくっていた富田製薬が鳴門へやってきます。それに続き戦前にいくつかの製薬会社ができました。そのときに大塚製薬なども誕生したのです。しかし、明治以降にイオン交換膜製塩法という塩の製法が登場したこともあり、塩田は縮小していきます。残念なことに次第に塩田の必要性は低下していったのです」
やがて、鳴門から塩田は姿を消していき、塩田の跡地は次々に住宅地となっていった。大規模地主がいなかったため、工場用地として活用が進まなかったそうだ。
「製薬会社が大きくなっても、工場用地が市内に少なかった。そのため、鳴門ではなく他地域で工場をつくるという苦い経験もしました。新旧の産業の転換には時間がかかりました」(中岸会頭)
鳴門わかめを磨きあげる
鳴門は水産物などの一次産品に恵まれている。特にワカメの養殖については、日本でいち早く取り組み、成功を収めた地域である。内海と外海の海流が激しくぶつかる鳴門海峡で育つ高級ブランド「鳴門わかめ」。湯通しをしないで乾燥させる鳴門独特の製法も、ワカメの持つ栄養やうまみを逃がさず、最高の風味と評判だ。
「鳴門でワカメの養殖を行っていた人びとは三陸地域に養殖方法を教えました。その後、韓国、中国にも指導に行ったのです。全国にワカメを普及した地域とも言えるでしょう」(中岸会頭)
同所では鳴門わかめのブランド力向上を図ることを目的に、平成26年10月に「徳島県鳴門わかめ協議会」を設立した。協議会では徳島県の「徳島県鳴門わかめ認証制度実施要綱」において認定審査委員会が認定した加工業者の認証商品に対し、鳴門わかめ認証シールを発行している。また、認証制度のホームページを開設し、鳴門わかめのPR、認定業者・認証商品を紹介している。このほかにもポスター・チラシなどを作成、配布するなど積極的な情報発信に努めている。
こうしたブランド化は農産品でも進んでいる。中でも、温暖で降雨量が少ない気候と海のミネラルを含んだ砂地で育てられた高級サツマイモブランドの「鳴門金時」は人気が高く、栗のようにホクホクとした食感と、高い糖度が自慢だ。
「『鳴門金時』の他に、レンコンも茨城県に次いで全国2位の産地となるなど、ここ鳴門は農産品にも恵まれた地域です。そのため農家は専業農家が多い。農業だけで、やっていけるのは非常に良いことです。その半面、なかなか6次産業化が進まないという悩みもありますね」(中岸会頭)
世界遺産登録で観光客を呼び込む
昭和60年には悲願だった大鳴門橋が開通したが、現実は厳しかった。
「いわゆるストロー効果で他県へ人が流れる現象が起きました。現在は、交流人口とともに滞留人口を増やすために知恵を絞っています」(中岸会頭)
鳴門市は四国八十八カ所霊場の出発地点。市内には、一番札所の霊山寺と二番札所の極楽寺があり、多くのお遍路さんが巡礼の旅をスタートさせることで知られる。
現在、四国で一丸となって八十八カ所霊場を世界文化遺産に登録しようという取り組みが加速している。一方で、その始まりの場所である「鳴門海峡の渦潮」を世界自然遺産にしようという動きも始まった。また、昨年、四国のチームとして初めてJ1に昇格した鳴門に本拠地を置くプロサッカーチーム「徳島ヴォルティス」は全国のサッカーファンを引き寄せ、新しい可能性も広がっている。
「徳島県、兵庫県、鳴門市、南あわじ市と一緒に渦潮を世界遺産に登録しようと動き出しました。当所でも『鳴門海峡の渦潮を世界遺産にする会』を設立しました。四国全体で八十八カ所霊場を世界遺産に登録する運動も続けています。また、有名な徳島の阿波おどりの直前に開催している『鳴門市阿波おどり』のPRにも力を入れています。徳島にひけを取らない熱気をぜひ感じてほしいですね。現状、観光客が市内にとどまらずに近隣に流れてしまうのです。観光客を呼び込み、鳴門を楽しんでいただけるようにしていくためにはまだまだ工夫が必要です。今後もよりよい鳴門を目指し引き続き取り組んでいきます」(中岸会頭)
第九が鳴り響くドイツとの交流
古くから交通の要衝として栄えた鳴門市には、人を迎え入れる文化と風土が育まれている。それを物語るこんなエピソードがある。第一次世界大戦中の大正6(1917)年、同市板東にあった「板東俘虜収容所」に中国・青島で捕虜となったドイツ兵士約1000人が送られてきた。所長を務めていた松江豊寿氏はじめ所員は、捕虜たちの人権を尊重して人道的で寛容な心で接した。また、地元の人たちも彼らと深く心を通わせ、捕虜たちを「ドイツさん」と呼び、交流を深めたそうだ。
その結果、捕虜たちは自由で開放的な生活を送り、その中ではさまざまなドイツの優れた技術や西欧文化を鳴門に伝えた。そして、7年6月には日本で初めてベートーヴェンの「第九」交響曲を合唱付きで全曲演奏したと言われる。現在でも、この緑は大切にされており、同市では夕方になると市内全域で「第九」が流れる。また、毎年6月の第一日曜日には「第九」の演奏会が行われている。
「この話は『バルトの楽園』というタイトルで映画化もされました。小学生がドイツ語で第九を歌える地域もあります」(中岸会頭)
一人でも多くの未来を担う人材を育成したい
商業も負けていない。鳴門市大道銀天街は「がんばる商店街30選」に選出された。同所では、「100円商店街」や「得する街のゼミナール(まちゼミ)」による販売促進、食べ歩き飲み歩きイベント「なるとまちバル」、起業家教育事業「ジュニアエコノミーカレッジ(ジュニエコ)」など多彩なイベントを展開。鳴門YEGが手掛ける地元CATVの人気番組は、市民にも広く浸透するなど、若い力で地域を盛り上げている。
「会津若松YEGで始まったジュニエコは非常に良い取り組みで、ノウハウを教えていただき当所でも開催しました。より多くの人たちに参加してもらおうと100円商店街などと同時に開催しています。こうした取り組みを通じて一人でも多く、鳴門の次世代を担う人材を育てていきたいですね」と中岸会頭は手応えを感じていた。
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