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時代を超えて今こそ学びたい渋沢栄一の経済哲学 大阪商人と渋沢栄一の関係性

宮本 又郎(みやもと・またお) 大阪商工会議所 大阪企業家ミュージアム 館長 大阪大学名誉教授1943年福岡市生まれ。神戸大学大学院経済学研究科修士課程修了後、博士課程で学ぶ。その後、同大学の経済学部助手、大阪大学経済学部の助手、専任講師、助教授を経て88年に教授に。2006年4月より同大学名誉教授となる。関西大学院大学客員教授、大阪企業家ミュージアム館長を務め、産学交流の発展に尽力する。著書は『近世日本の市場経済』(有斐閣)、『日本の近代11 企業家たちの挑戦』(中央公論新社)、『商都大阪をつくった男 五代友厚』(NHK出版)など多数

2016年に「日本の企業家シリーズ」(PHP研究所)の第一弾として『渋沢栄一 日本近代の扉を開いた財界リーダー』を刊行しました。私が渋沢栄一に最も関心を持った理由は、財界リーダーとしての役割の大きさです。その影響力は東京のみならず大阪にも波及し、明治維新で混迷する大阪商人の新たな指針にもなったのです。

「信用」のシンボルとしての渋沢の存在価値

渋沢栄一は、周知の通り生涯に500以上の企業の設立・育成に関わったといわれます。個々の企業の設立や経営だけではなく、企業間の連携や調整、産学官のパイプ役としても重要な役割を担っていました。道徳と経済は両立させることができるという「道徳経済合一説」を唱え、ニューディーラーとして経済界においても指導的な立場にありました。ニューディーラーとは、トランプゲームでカードを新規に配り直す(ディール)人という意味です。渋沢が活躍した時代は、経済界に共通の問題がいくつもありました。例えば関税、治外法権、欧米へのキャッチアップ、富国強兵などです。不平等条約改正の取り組みの中で、商工会議所の前身、東京商法会議所が誕生しました。渋沢が初代会頭になるわけですが、個別の企業では解決にコストも時間もかかる問題が立ちはだかったとき、渋沢のような財界リーダーの必要性が際立ちます。

財界リーダーは単に財力や経営者能力、技術者能力があればいいというものではありません。多くの実業家から信頼を得るための指導理念が必要です。それが先に述べた道徳経済合一説ですが、渋沢は、欧米に精通した情報力、政治家を含めた豊かな人脈、異なる利害関係を持つ組織の調整能力などに長けていました。資本市場が未成熟だった時代ですから、企業の立ち上げにどんな人が関わり、どういう人を株主として勧誘できるか、「誰が」という点が今以上に問われました。そして、「誰が」に渋沢の名があることには、多くの実業家から信頼されるシンボル的な意味合いがあったのです。

東洋のマンチェスター、大阪の基盤を陰で支える

渋沢の活動拠点は東京ですが、大阪の近代産業発展にも渋沢は深く関わっています。大阪には「東の渋沢、西の五代」といわれ、渋沢と並び称される大阪商法会議所の初代会頭、五代友厚がいました。両者は同じ時期にフランスや英国に渡っており、日本産業の近代化に尽力した点も共通しています。五代が提唱した「商社合力」と渋沢の「合本主義」は、私は同じ意味ではないかと捉えています。五代は製銅所や貿易会社、商船会社を設立して産業復興に努めますが、渋沢が大阪で最初に手掛けたのが紡績会社です。

幕末の開港以降、海外の安価な綿製品が普及し、国内の繊維産業は衰退していきました。それを危惧した政府は紡績機械を輸入し、紡績所をいくつもつくります。しかし、ことごとく失敗していました。渋沢は海外の紡績所に比べて規模があまりに小さいこと、適切な経営者と技術者の欠如という欠点を見抜き、2000錘(すい)ではなく1万錘規模の紡績所の設立に乗り出します。同じ頃、大阪でも五代とともに大阪商法会議所の設立に尽力した藤田伝三郎、銀行家の松本重太郎や繊維関連の商人らの間で、紡績会社を設立する気運が芽生えていました。

大阪府から工業用地を貸し下げられることになり、資本調達に奔走していた渋沢と目的が合致します。そして東京と大阪の資本が一つになって、1882年に日本初の蒸気力紡績会社、大阪紡績会社が誕生するのです。頭取に藤田が、取締役に松本が就き、渋沢も相談役に名を連ねます。そして渋沢が技師として白羽の矢を立てたのが英国に留学中の山辺丈夫(やまのべたけお)でした。当時、世界の紡績業の最先端地マンチェスターで学んだ山辺が帰国すると、技師育成にも早い段階から着手するなど、渋沢は資本や設備、技術や人材育成面においても采配を振ります。大阪紡績の創業当初からの目覚ましい業績の背後に、渋沢の姿があったのです。

公の利益を優先する事業を創出する世話役が必要

しかし、渋沢は当時の大阪商人とは一定の距離を置いていたようです。藤田も松本も長州と丹後の出身で、いわば新興の大阪の資本家、ベンチャーです。江戸時代に成功していた大阪商人は危機感がなく、維新後も旧来の経済基盤の延長で再生できると思い、合本主義で近代産業に転換するという考え方も懐疑的に見ていたと考えられます。ガソリン自動車で実績を上げていると、電気自動車の開発に出遅れるという、いわゆるイノベーションのジレンマのような状態です。それが、大阪紡績の業績を目の当たりにして、大阪商人にも火がつきます。そして、日本の近代産業発展の引き金となった紡績業が発達し、大阪は東洋のマンチェスターと呼ばれるまでに急成長していったのです。

大阪紡績はその後、渋沢が支援して発足した三重紡績と合併し、東洋紡績、東洋紡となり現在に至ります。同社の企業理念に「順理則裕」という中国宋代の代表的学者の一人、程頤(ていい)の言葉があります。これは、「合理的・論理的に考え、行動する」「道理に従うことが繁栄につながる」の意味で、渋沢が座右の銘としていました。渋沢流ビジネスモデルが息づいていることを感じさせますが、ほかにも当時の実業家で渋沢が影響を与えた人物はたくさんいます。東洋紡の社長になった斎藤恒三をはじめ、浅野総一郎や佐々木勇之助、郷誠之助など錚々(そうそう)たる顔ぶれです。渋沢の思想のベースには士農工商という身分制の打破がありましたが、結果として、近代産業への優秀な人材育成に大きく貢献したともいえます。

今、大阪の企業が東京や海外に進出することを嘆く人がいますが、私はむしろ推奨するスタンスです。優秀だからこそ飛び出す、プロ野球選手が大リーグに渡るのと似たことです。問題は大阪で次代を担う人材を育て続けられるかどうかです。今は渋沢が活躍した時代とは異なり、企業が個別に経営資源を調達でき、業界団体や経済団体に頼ることが減りました。そういう状況下では渋沢のような存在が活躍する場は狭まるかもしれません。しかし、日本は新規事業の創出が世界的に非常に低いといわれている今だからこそ、個よりも公の利益を優先し、人材育成、人物評価のできる渋沢のような世話役が必要だと思うのです。

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