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時代を超えて今こそ学びたい渋沢栄一の経済哲学 インフラと社会事業の礎を築く

杉山(石井)里枝(すぎやま(いしい)・りえ) 國學院大學経済学部教授 1977年群馬県生まれ。2000年東京大学経済学部経済学科、02年同経営学科を卒業。09年同大大学院経済学研究科博士課程修了。博士(経済学)。三菱経済研究所研究員、愛知大学経営学部准教授、國學院大學経済学部准教授を経て、18年より現職。10年度経営史学会賞、第1回鉄道史学会住田奨励賞(第1部門)、第5回鉄道史学会住田奨励賞(第2部門)受賞。著書に『戦前期日本の地方企業―地域における産業化と近代経営―』(日本経済評論社)などがある

渋沢栄一は一実業家のひと言ではくくれないほど、数々の功績を残しています。事業は公益を軸に展開し、地方企業との交流も深く、生涯関わったといわれる約600の社会事業には、90歳を過ぎてもなお情熱を注ぎ続けました。現代の企業におけるCSR(企業の社会的責任)、CSV(共通価値の創造)にも通じる取り組みを紹介します。

両毛鉄道の創設に渋沢栄一あり

そもそも私が渋沢栄一に興味を持ったのは、地元、前橋市を走るJR両毛線の研究からです。鉄道マニア的な関心ではなく、高校生の時に通学に利用していた電車の歴史的背景や産業鉄道としての役割について調査、研究をしていました。調べていくうちに、発起時の株主リストに、渋沢栄一の名前を見つけました。「こんなローカル線にどうして?」と疑問に思ったことから、次第に両毛線から渋沢栄一へと研究対象が広がっていったのです。

そして大学院博士課程1年の時に、渋沢栄一研究の第一人者である経営学者の島田昌和先生に誘われて渋沢研究会に参加し、以来、多角的に渋沢栄一を研究し続けています。渋沢は生涯をかけて私益ではなく公益を追求し、両毛線、当時の両毛鉄道にも「利あり」と開設援助をしています。発起人の一人だった田口卯吉が初代社長となり、両毛鉄道株式会社が桐生織や生糸などの輸送を目的に設立され、1888年に開業にこぎつけます。この背景にはイギリスの産業革命の舞台となったマンチェスターが、港町のリバプールと鉄道でつながり紡績業で栄えたように、両毛鉄道を横浜までつなげるという壮大な構想があったようです。

横浜まではつながりませんでしたが、両毛鉄道の開設によって在来産業である養蚕や製糸、織物業が発展した功績は大きかったといえます。

秀でた人選力と合理的な判断力

両毛鉄道に限らず、渋沢は全国の鉄道に若い頃から携わっています。当時の鉄道には人の移動手段としてだけではなく、産業の発展や文明開化、富国強兵に向けた物流の大動脈という重要な役割がありました。ガスや電気などのインフラ事業に当時の財閥系の企業はあまり関与しておらず、ヨーロッパ諸国の動向を見ていた渋沢は先んじて取り組んでいたのです。資本集めも特定の人から多額の投資をしてもらうのではなく、少額をより多くの人から集めるという方法です。これを渋沢栄一は合本法や合本組織と呼び、後に「合本主義」として一般に広がっていきました。多くの人が参加する開放的な経営は今の時代にもマッチしていますが、言い換えれば、今の時代の流れの源流に渋沢栄一がいるといえるかもしれません。

面白いことに、渋沢は約500の企業の設立・育成に関わっていますが、「もうかるか否か」についてはシビアに見極めていたようです。もちろん私利私欲に基づいたもうけではなく、社会に還元でき、社会全体が潤い、国民の生活が豊かになるという公益に照らし合わせた上での損得勘定で、これが非常に長けていました。

さらに人を見る目、人選力の高さで、膨大な数の事業を効率良く回しています。例えば、大阪紡績や東洋紡など日本の紡績業をけん引した山辺丈夫を、ロンドン大学に留学していたころにすでに目をかけていて、資金援助してマンチェスターの工場で実習させるなどしています。身内にもシビアな面があり、嫡孫である敬三を早くから「自分の跡取りである」と明言しています。

多忙な日々だったと思うのですが、人に会うことも惜しみません。渋沢が総監役、頭取を務めた日本初の近代国立銀行、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や日本橋兜町の事務所には、面談に訪れる人が絶えなかったといいます。本人も鉄道を積極的に利用して全国各地に赴くとともに、手紙や電話も活用して、人的ネットワークを効率良く、合理的に築いていきます。事業の多くは表舞台に立つのではなく、裏方として尽力し、オーナー経営者にならないのが渋沢の事業展開の特徴です。

合理的かつ情熱ある社会事業家としての顔

私自身は、実業家としてだけでなく社会事業家としての渋沢の研究をより深めたいと考えています。社会事業は関わった企業数よりも多く、その数は約600ともいわれ、社会事業においても、合理性を追求する姿勢を貫いています。団体を立ち上げて継続的に事業を回し、「論語と算盤(そろばん)」のバランスをとっていました。

渋沢は明治時代後期、中央慈善協会の発足式で「思いつきでの慈善や名聞慈善は、慈善事業として望ましいものではない」「いかにも道理正しく組織的に経済的に進歩拡張していくべきだ」と述べ、社会事業も継続性が重要であることを説いています。晩年は事業の多くから身を引く渋沢ですが、社会事業には晩年にも多く関わり続けました。

1872年創設の養育院(現・東京都健康長寿医療センター)については、74年から運営に関わり、76年に事務長に、90年には院長に就任して91歳で亡くなるまで約50年間院長を続けています。1929年に国会で成立した救護法案が、なかなか施行されず棚上げされている状況だと知ると、90歳を過ぎて体調がすぐれない中、医者や家族に止められながらも病を押して政府関係者に掛け合いに行くこともありました。社会事業には合理性だけではない情熱を持って取り組んでいることがうかがい知れます。

生活に困窮している人を救うことは、豊かな生活環境を整えることにつながっており、事業を安定して継続していくには、人材育成も不可欠と教育にも熱心でした。それも簿記や英語など社会で役立つ実業教育で、女子教育にも尽力するなど、一実業家のひと言ではくくれない活躍です。

江戸、明治、大正、昭和と激動の時代を生きた渋沢は、数々の名言を残していますが、その中でも私が好きな言葉に「士魂商才」があります。「士農工商」の階級を打破し、武士の精神と商人としての才覚を養う。国民の精神性、教養を高め、経済活動と社会事業の両輪の推進力を強化し、継続させていく。これは今の時代でいうところの、CSRに通じ、CSVの社会的な課題の解決と企業利益の両立を目指す取り組みの大いなるヒントになり得ると思うのです。

渋沢に学ぶべき点は、今だからこそ、まだまだたくさんあるといえるのではないでしょうか。

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渋沢栄一は、日本各地に500余りの企業や銀行などを興し、各地の商工会議所との交流も深かった。そして、90歳を過ぎた晩年まで渋沢翁は、精力的にそうした企業や商工会議所を訪…

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