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時代を超えて今こそ学びたい渋沢栄一の経済哲学 商工会議所創立140年記念

平成30(2018)年は、明治11(1878)年に東京、大阪、神戸に商工会議所(当時は商法会議所)が誕生して140年を迎える記念すべき年である。そこで、東京商法会議所の初代会頭であり、近代日本社会の礎となる事業に参画し、現在まで続く数多くの企業の設立に携わった渋沢栄一の軌跡と彼が目指した経営哲学に迫りたい。

渋沢栄一記念財団 渋沢史料館・館長 井上 潤

渋沢栄一が目指した企業像と経営者像

明治大学文学部史学地理学科日本史学専攻卒業。1982年の渋沢史料館開館当初から学芸員として勤め、館長に就任以降、現在も地元とのつながりを大切にしつつ世界にも目を向けて同史料館の情報発信力を強化する一方で、関係諸機関とのネットワークづくりに努めている。主な著書に『渋沢栄一-近代日本社会の創造者』(山川出版社)、『渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営』(共著、同友館)ほか

渋沢栄一は『論語』の教えを基に、企業は道徳に則った経営で利益を追求すべしという考え方を基本にしていた。その渋沢が「道徳経済合一説」で説く企業と経営者のあるべき姿は、時代を超えても色あせることはない。そんな渋沢栄一の生き方と考え方の神髄について、渋沢の生涯と実績に関する資料を収蔵・展示している渋沢史料館の井上潤館長にお話を伺った。

民間の商人の力を底上げし新しい世の中をつくっていく

─江戸時代は幕臣だった渋沢栄一が、明治維新後に描いた日本の姿というのはどのようなものだったのでしょうか。

井上 仕えていた一橋慶喜が将軍となったことで渋沢は幕臣となり、慶応3(1867)年のパリ万国博覧会への使節団の一員としてヨーロッパに派遣されました。ナポレオン3世による第二帝政期であった当時のフランスは、産業振興政策が進行しており、銀行が次々と設立され、流通機能が整えられていく時代でした。渋沢がそのフランスの発展ぶりを目の当たりにし、また、ヨーロッパ諸国を巡歴してさまざまな国の姿を見ていく中で、世の中の繁栄や国力の増強というのは、軍事や政治ではなく、産業の振興にあるということを実感しました。また、当時の日本は士農工商の身分制度の中で武士(官)がトップで、民間の中でも商人は最下位でさげすまれていたのに対し、ヨーロッパでは政治家と経済人が対等の立場で国のことを考えていました。そこで渋沢は官尊民卑を打破し、官と民が一体となって新しい世の中をつくっていかなければいけない、そのためには民間の力を底上げする必要があると強く感じました。それが、渋沢の目指す新たな日本の姿というものでした。

─帰国してからの渋沢は、日本の産業振興のためにどのようなことを行っていったのですか。

井上 帰国後、渋沢は静岡で会社組織を立ち上げたのですが、軌道に乗り始めた直後、大隈重信から日本の産業発展の基盤整備のためにも政府で力を尽くしてもらいたいと説得されて、民部省に入りました。そこでは制度改革に向けての調査から企画立案を行う改正掛の掛長に就任してさまざまな改革を進めていきました。そして政府内の意見対立から退官した後、まずは第一国立銀行の総監役に就任して金融基盤の確立を目指しました。それ以降、彼はさまざまな会社を立ち上げていくことになります。

利益を追求するのではなく事業の継続と発展を重視

─渋沢栄一は500社余りの企業の設立・育成に関わったとされていますが、どのような観点から起業する業種を選び、会社を起こしていったのでしょうか。

井上 渋沢は、日本の発展をもくろむ中で、まず必要となる事業から始めていきました。最初はお金の流れをつくるための銀行でした。海運や陸運といった運輸方面にも早くから着手していました。そしてもう一つ、渋沢が目を付けていたのが情報の重要性でした。渋沢はフランスにいるとき、新聞を見て、日本でもこういう情報ツールが必要だという思いを持ったのです。新聞発行のためには印刷のできる紙を大量に製造する必要があるので、西洋紙の工場をつくりました。その後印刷会社、新聞社と続きました。また、紙を漂白するための化学薬品をつくる会社など、派生する事業が起こったように、そのような連鎖が続いていったのです。

─そうしていく中で、渋沢は日本の重要な産業を押さえて、富を独占するようなことはなかったのでしょうか。

井上 それはありませんでした。渋沢が財閥を築かなかったことは知られていますが、それは彼が企業経営の中で一番重視していたのが独占を嫌うことからでした。例えば、第一国立銀行ではオーナー的な存在でしたが自分の持ち株は10%未満で、しかも軌道に乗ったらその株を売却し、指導的な立場として残るだけで、売却で得たお金は次の新たな事業に投資していきました。自分で会社づくりや事業を継続させていくための努力はしますが、会社を自分の支配下に置こうという意識はまったくありませんでした。彼は企業から得られる利益以上に、その事業の継続、発展自体に重きを置いていたのです。

─あれだけ多くの企業を立ち上げ、経営に関わっていくのは大変だったのではないでしょうか。

井上 彼は還暦のころに、同時に面倒を見られるのは30社くらいまでだと言っています。これでも大したものですが、それぞれの会社で事業を運営できる人材の育成を図りつつ、また財閥を嫌っていたわりには意外に財閥の優秀な人物をうまく活用して、多くの事業を軌道に乗せていくための組織づくりを常に考えていました。

─それらの事業の中には、軌道に乗るまでに数年という時間がかかったところもあります。そんな渋沢の粘り強さはどこからきているのでしょう。

井上 彼は自身の経営理念の中で、経営には絶大なる忍耐力が必要だと言っています。立ち上げた事業が順調に成長を遂げることはまれで、苦難がつきものであるが、先を見据え、目指すべき将来像を着実に形づくっていくためには忍耐が必要なのだと。会社が無配の状態に陥ったときに、出資してくれている人たちに頭を下げて事情を丁寧に説明して回ったり、今この会社を残さないと、株式会社の信用が日本には定着しないと。それぞれの企業に対して、資金調達の方法などを自ら指導に当たるなど、事業が継続していけるよう努力したりしました。このように渋沢は、自らが苦難に耐え忍んできた体験から、忍耐力の重要性を感じていたのだと思います。

不平等条約を改正するため民意を結集する機関を設立

─渋沢は企業だけではなく、社会福祉や医療、教育にも力を入れて取り組んでいます。これはどうしてでしょうか。

井上 彼自身の中では企業経営と社会事業との間に区別がなかったのだと思います。むしろ企業経営も社会事業の一環だと思っていたのではないでしょうか。世の中のインフラを整備するという事業に必要なものが、企業だったり社会事業だったりということだったと思います。そのように日本を発展させる努力をしたのですが、それでみんなが幸せになったかというとそうでもなく、格差も生まれてきた。その状況にも渋沢は目を向け、その格差をなくしていくために、福祉といった事業にも重きを置いていくようになりました。渋沢は決して産業だけではなく、世の中全体のことについて目を向けていたのです。

─渋沢は明治11(1878)年に、今の東京商工会議所の前身となる東京商法会議所を設立し、初代会頭に就任しました。設立の理由は何だったのでしょうか。

井上 当時、解決するべき大きな問題だったのが、幕末に欧米諸国と締結した不平等条約の改正でした。その取り組みの中で日本の当局者がイギリスのパークスという駐日公使に対して、不平等条約の改正を進めなければ日本の世論が許さないのだと訴えましたが、パークスは、「日本には世論がない、民間の人間が口々に意見を言っているかもしれないが、それをきちんと整理して一つの世論として形成する機関が日本にはない」と指摘したのです。そこで大隈重信が渋沢に相談を持ち掛けました。渋沢は英米にあるチェンバー・オブ・コマース(商業会議所)を知っており、目指していた民間の力の底上げを図っていくうえで必要な機関だと強く意識しました。渋沢が民間の機関が民意を結集する場として東京商法会議所を設立し、その後日本各地に商法会議所が独自に組織されていきました。実は、商工会議所設立の一番大きな理由は、条約改正の問題で民意を結集させなければいけないというところだったのです。

自分自身の利益ではなく公の利益を第一に考える

─渋沢はその後『論語と算盤』を著し、正当な利益の追求と公益を第一とする、「道徳経済合一説」を打ち出しました。これはどのようにして出てきたのでしょうか。

井上 江戸時代、商売は卑しいこととされていましたが、これは当時の学者が間違った解釈をしたからで、渋沢は、自らが規範とした『論語』には商売が悪いとは一言も述べられていないと強く言っています。『論語』では、利益を得ることは生活を安定させる基盤をつくるのに必要なものだが、利益を求める際に道義や倫理に反してはいけないと強く戒めているのだとしています。そこには、商業活動の必要性を訴え、それを担う商人の意識の向上を図る目的もありました。渋沢が説く「道徳経済合一説」というのは、まずは商業道徳の重視で、もう一つは自分の利益を第一に考えるのではなく、常に相手の利益や公の利益を第一に考えるということです。そしてそれが、自分の利益につながってくるのだと。彼が多くの事業に関与する中で大過なく過ごすことがきたのは、孔子の教えを貫いたからとしています。

─理念は分かりますが、企業がそれを実践していくのはなかなか難しそうですね。

井上 渋沢自身もそう考えていました。彼が道徳経済合一について語っている言葉の最後で次のような意味のことを言っています。道徳経済合一はなかなか実現しないだろう。だがいつの日か、この考えが世の中にしっかり浸透する日が来ることを願っている。渋沢は「日本資本主義の父」と呼ばれていますが、彼自身は資本主義という言葉をあまり使わず、使ってもあまり良い意味にではありませんでした。欧米の資本主義というのは、私の利益を第一に求める人たちの考え方だと思っていました。その中でいわゆる見えざる手が働いて世の中に利益還元が図られるということで、渋沢は公の利益を第一に考えることが自分の利益につながってくるのだと言っていたのです。

道徳経済合一を根本に据えて企業経営に当たるべき

─現在の企業にとって、渋沢が説く道徳と経済の一致はどのように参考になると思いますか。

井上 いまだに自らの利益を最優先に考え、多少の不道徳には目をつぶっている企業があります。それが露呈して会社が成り立たなくなっているところもあります。道徳経済合一は事業体を継続していくために貫いていくべき根本的な考え方です。渋沢が関係した企業や団体は、多くが100年以上続いています。商工会議所も140年ですね。単に事業を起こそうとか、事業で利益を得ようといった発想ではなく、彼は世の中に必要な事業を立ち上げ、それが永続できるシステムをつくろうとしていたのです。道徳経済合一は参考程度ではなく、企業はこれを根本に据えて経営に当たるべきだと思っています。

─最後に、もし渋沢が現代によみがえったら、経営者にどのような言葉を掛けていたと思いますか。

井上 企業はどうしても目先の利益や業績を重視して、短期間での成長を意識してしまいますが、もう少し長期的な展望を持ち、視野を広げて事業経営に当たるべきだというようなことを言うと思います。そして、彼が目指していた世の中にはまだなっていないことを見て、道徳経済合一について説明した際の結びの言葉、いつの日か道徳経済合一の考えが世の中に浸透する日が来ることを願っていると、再び言うのではないでしょうか。

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