2018年に日本遺産に登録された「星降る中部高地の縄文世界」、2021年の世界遺産登録を目指す「北海道・北東北の縄文遺跡群」など、日本各地に散らばる“縄文”が、地域の新たな起爆剤として注目されている。
総論
青柳 正規
文化芸術立国から「芸術」を省いた理由
―国は「文化芸術立国」を目指していますが、先生は「文化立国」を提言しています。芸術を省いたのはなぜですか?
芸術には危険な面があるからです。芸術は優美で人々の気持ちを穏やかにすると言われますが、むしろ常識を破ったり、人々の気持ちを妙に高揚させたり、最近のコンテンポラリー芸術はいら立ちを覚えさせたり、芸術の中にある狂気により日常生活に警告を与えるといったものも含みます。そこに目をつむって、単に芸術を良きものであると捉えるのは芸術の本質を分かっていない。
そこで芸術を省き、あくまでも文化というものを大切にしていこうというメッセージを込めました。文化は時代がたてば慣れ親しんで、充実感を味わえなくなってくる。そういうときに芸術が働きかけて文化を刷新して、そしてまたその文化で30年、50年続いていく。そういう役割を果たすものなのです。
―これまでの日本を牽引してきたのは経済です。これからは文化が新たな担い手になるのですか。
日本は成熟社会となり、戦後のような経済頼みだけでは限界に来ています。成熟社会では、環境問題や福祉問題、観光をはじめとする文化的なことを活性化させる必要があります。それらを踏まえ、次の段階として経済が活性化するのです。
―日本の文化は世界に誇れるものでしょうか。
中国は高い経済成長により、富裕層が増えていますが、晩年は日本に移住したいと話す人も多くいます。それは日本社会が持つトータルとしての良さが評価されているからであり、私たちはそれを大切にしていかなければなりません。そして、トータルとして質の良さの根源には文化があります。
日本文化は、世界の文化に比べると寡黙です。自分自身で自分の良さを物語るようなところがないので、それを見つけてあげなくてはいけないし、それを理解してあげないといけない。その良さは他の人に伝えないと分からない。
そのため、日本文化は海外では理解されにくかったし、私たちもこんなにいい文化を持っていたことに気付かずにいました。ところが急増している訪日外国人旅行客のおかげで、日本人が日本の文化を見直す機会を与えられました。
―日本文化は寡黙であるということですが、西欧文化と比べて、どう違うのでしょうか。
フランスの文化人類学者、レヴィ=ストロースは、社会を「熱い社会」と「冷たい社会」に分類しました。熱い社会とは階級のような社会格差が歴然とあり、それを乗り越えようとするエネルギーによって前進していく欧米のような社会。そのため上層にいる人たちは、より豪華な生活を見せびらかすことで、下層の人たちの上へ行きたいという欲求を駆り立てます。
一方、冷たい社会は比較的穏やかで、民衆は社会的ストレスを非日常の祭りなどで解消するという日本のような社会のことです。装身具を例に取ると、縄文時代の人たちは直径7〜8㎝もあるような耳輪をつくっていました。派手ですよね。ところが時代がたつにつれて、派手さが消えて地味になっていく。派手なものを身に着けるとセンスが悪いと否定されてしまう。同じ環境の中で目立たないように贅を競うことが伝統になってくる。
慎み深さといったものを大切にするところからどんどん寡黙になっていき、一つ一つを説明しないと分からないものになっている。しかし、それがとてもよかったと思うのです。
多品種少量生産の農業のDNAが生産性向上を阻む
―日本が穏やかな社会だったのは、農業で食べていくことができたからでしょうか。
農業という視点では、必ずしもプロの農家が存在していたとはいえません。江戸時代、士農工商という身分制度がありましたが、お百姓は農業から抜け出たいと思っていたし、下級武士は菜園を作り自給自足していました。士と農の差があまりありませんでした。
日本の土地は肥えているので多品種少量生産でも、自分の家族や周辺の人たちを食べさせることができました。しかし、農業を産業として捉えると大変効率が悪い。
日本の生産性が先進国の中で低いと言われているのは、伝統的歴史的に多品種少量生産の農業が身の回りにあり、それに合うように生活様式がつくられているからで、それが近代産業にも反映しているのではないでしょうか。誰もが生産性向上を口にしますが、おそらく向上しないと思います。
―文化立国は、どのように地域振興に貢献するのでしょうか。
地方は疲弊しており、その影響が中央にも及んでいます。早く手当てをしなければいけません。
安倍内閣は「まち・ひと・しごと創生総合戦略」を打ち出し、地方の活性化に力を入れていますが、それは大平正芳内閣の「田園都市国家構想」から言われ続けてきたこと。竹下登内閣では「ふるさと創生事業」として1億円を配りました。それでもうまくいっていない。それは地方分権と言いながら、実は中央で考えた政策を全国一律で実行しているからです。それぞれの地域には、それぞれ違ったニーズがあるので、ボトムアップの政策を考えなければいけません。
―それなのに各地が作成した「まち・ひと・しごと」計画は、どれも同じように見えます。
金太郎飴のようですね。そこで地方の人たちには、江戸時代に行われた国おこしを参考にして、自分たちの文化的な社会的な歴史的なコンテクストをもう一度見つめ直す作業を、まずやってほしいと思います。
―国の政策が変わるのを待つのではなく、地方の人たちが自ら動き出すしかないのですね。
埼玉県の秩父で小中学校の教師を対象に講演したとき、「自分たちは一生懸命いい生徒をつくろうと思い、授業をしているのだけれど、できる生徒は東京へ出て行ってしまう」という教師の話を聞きました。しかし、東京に定着する人は半分以下で、半分以上は秩父に帰りたいが「都落ち」と思われそうで帰れないというのです。これからは「いい生徒が東京に出て行かず、自分たちの住んでいる地域で職を求めて、土地に愛着を持って生きていく人間をつくることが我々の使命だ」とおっしゃっていました。ご苦労されておられますが、日本のシステムが現状に合わなくなってきているのです。だからシステムの中で何かを生み出しても、現状が求めているものではない。このミスマッチがいろいろなところに出始めています。
教育も大切ですが、同時にコミュニティーを見直して強化する方向へ変えていく必要があります。コミュニティーが消えつつあるため、東日本大震災では「絆」の大切さが再認識されました。
縄文自体の豊かな生活が芸術品としての土器を生む
―縄文時代のコミュニティーは、どのようなものだったのでしょうか。多くの人が集まり暮らしていたのでしょうか。
縄文時代は中期でも日本の人口は30万人に届いていなかったでしょう。密と疎で言えば疎であり、コミュニティーも小規模なものでした。しかし大地は地味が肥えており、採集生活でも最低限の生活が保証されていました。
世界的に見れば新石器時代ですが、大陸から遠く離れたところで土器作りが始まったことは驚異ですね。
―しかも土器は実用一辺倒ではありません。
自然が豊かで食料が確保されていたことからくる生活の余裕が、あのような美術的で造形力のある縄文土器を生んだのでしょう。土地が豊かではない西洋では、そこまでの余裕はなかったと思います。
また、時間の余裕もあったので、呪術のような宗教一歩手前のものにも一生懸命だったようです。
―先生は現在、山梨県立美術館館長としてご活躍中ですが、山梨県は縄文と関わりの深い土地ですね。縄文は地域振興に役立つのでしょうか。
山梨と縄文の関わりは大変に深いですね。世界遺産に登録されるためには「不動産」としての遺跡が残っている必要があり、それを保有する北海道や青森が一生懸命運動をしています。山梨や長野の縄文は、中期の頃は北よりもはるかに進んだ文化を持っていたのですが、残念ながら不動産としては見るものが少ない。しかし縄文の本質を考える上では、山梨、長野、新潟あたりの中期を中心とした縄文のあり方を押さえることが基本になると思います。
縄文を軸とした地域振興は十分に可能でしょう。新潟では火焔型土器を誇りにしており、それがルーツにつながるかどうかは分かりませんが、先史時代から豊かな文化を持っていたことを誇りにしています。とてもいいことだと思います。
―縄文を観光資源にする上で、どのようことを心掛ければいいでしょうか。
独りよがりにならないことですね。縄文は世界的に見ても古い土器ですが、中国ではそれを凌駕するものが出始めています。そういう情報を得ても(一番古いものではなかったと)めげるのではなく、文化の相対化を行い、理解に基づく文化に対する愛着を深めていく。それが本当の地域おこしにつながると思います。
その地域を愛する気持ちが広がればまちを愛し、県を愛し、やがて日本を愛することにつながっていくでしょう。
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