宮崎美老園
宮崎県宮崎市
都城から県都・宮崎に進出
宮崎県では、江戸時代中期に京都宇治から持ち帰られた蒸製製茶法がきっかけでお茶づくりが広まり、現在国内第4位の生産量を誇る。その県庁所在地である宮崎市の中心的な繁華街の橘通りで、宮崎美老園はお茶を販売している。
「店の創業は明治15(1882)年としていますが、これは初代の森伝吉が宮崎に支店を出した年で、もともとは都城でお茶の製造販売をしていました。当時は都城のほうが宮崎よりも栄えており、また、お茶の主要な産地でもありました。廃藩置県の後にできた宮崎県の県都が宮崎市になったことから、こちらにも店を構えることにしたのかもしれません」と、四代目店主の久保裕さんは言う。
創業当時、店は市内を流れる大淀川沿いにあった。海に面する宮崎市は明治時代まで海運業が盛んで、港のある大淀川南側河口付近が、最も栄えていたのである。その後、主な輸送手段が船から鉄道に移ると、市の繁華街は河畔を離れ、鉄道駅寄りに移っていった。宮崎美老園も、戦後になって現在は繁華街となっている橘通り沿いに店舗を移転している。
初代・伝吉は、最初に宮崎市に、その後福岡県小倉(現在の北九州市)や鹿児島市にも支店を出しており、今でも都城市、鹿児島市に美老園という同名の店が残っている。もともとは本店・支店の関係で、伝吉の息子たちがそれぞれの店を任されていたが、時を経るにしたがって各店とも独立し、今では別の店となっている。
「宮崎の店はしばらくの間は伝吉が経営していましたが、その後、息子の伝三郎が二代目として引き継ぎました。そこに、私の祖母が嫁いできたわけです」
学生と四代目の二足のわらじ
「祖母の旧姓が久保で、祖母には男の兄弟がいませんでした。そのため久保の名前を誰かが継ぐ必要があり、祖父と祖母の間にできた次男である私の父、辰二郎が久保姓を引き継ぎました。ですので、父は本来なら美老園を継ぐはずではなかったのですが、終戦直前に宮崎で空襲があり、祖父伝三郎と伯父夫婦が亡くなってしまいました。そのため戦地から帰ってきた久保姓の父が、美老園の三代目を継ぐことになりました。ですので私は初代とは姓が異なるのです」
そう語る久保さんは、大学3年生の時に店を継いでいる。その年の暮に父親の辰二郎さんが急に亡くなってしまったのだ。久保さんは大学3年間で卒業に必要な単位を全て取得し、4年生の時は実家に帰り、必要な時だけ大学のある神戸に行くという、大学生と四代目の二足のわらじをはく生活を送ることになった。
「私が大学3年生の時、生前の父と、3年間で単位を全部取れば、4年目は授業に出なくていいから、時々宮崎から飛行機に乗って通えばいいなどと冗談で言っていたんです。そうしたら本当にそうなってしまって。結局、4年目は大学に2回だけ行って、卒論を提出して卒業しました。先々代も先代も早くに亡くなってしまい、店の歴史を語り継いでこられなかったことが非常に残念です」
ニーズの多様化にも対応
父親が急に亡くなり、右も左も分からない状態でスタートした久保さんだったが、まず気をつけたのがお茶の味だった。
「長年のお客さまばかりなので、私が後を継いだ時、お茶の味が変わったとおっしゃる方も多くいました。父が残した茶葉のブレンドのレシピなどもなく、私の母の舌や記憶を元にお茶の味をつくっていきました。お茶は原料が農産物なので味は毎年変わるものなのですが、お客さまは毎年変わらない味だと喜んでくださっている。そういう声を守っていくことに苦労しました。また、店の歴史を守る責任の重さを、後を継いで初めて痛感し、眠れない日も続きました」
久保さんが店を継いでから、日本人の飲料に対するニーズが多様化し、お茶があまり飲まれなくなり、飲んだとしてもペットボトルという人が多くなってきた。このままでは茶葉を専門店で買う人がいなくなってしまう可能性もある。
「そこで、最近の食の重要なキーワードである美容・健康・ダイエットと結びつけた新しいお茶の楽しみ方の提案を進めています。伝統や歴史が一つの車輪だとすると、新たな取り組みはもう一つの車輪。伝統・歴史にあぐらをかいていては、片輪だけで同じところをクルクル回っている状態になる。両輪相まって初めて、前に進めるのだと私は思っています」
地元の大学で授業を持ち、大学生たちにお茶のおいしい淹れ方や歴史、文化、効能を教えるなど、久保さんは積極的にお茶の魅力を伝える努力をしている。その熱意が宮崎のお茶をこれからも支えていくことだろう。
プロフィール
社名:有限会社宮崎美老園(みやざきびろうえん)
所在地:宮崎市橘通西1-2-18
電話:0985-22-2836
代表者:久保裕 代表取締役
創業:明治15(1882)年
従業員:5人
※月刊石垣2021年2月号に掲載された記事です。
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