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あの人を訪ねたい 鮫島純子

「世界人類が平和であり続けるよう願い、どんなことも喜び、感謝して心を磨く毎日です」

エッセイストの鮫島純子さんのもとには、健やかな暮らし方、生き方を説く講演会の依頼が、ひっきりなしに舞い込む。「渋沢栄一の孫」という言葉がついて回る人生の中で、自らの生き方を問い続け、孫としてではなく、自らの経験や人との出会いを通じて「個」を磨き、輝きを放つ。御年96歳、たおやかに現役であり続ける。

祖父・渋沢栄一の素顔を記憶する一人

取材の2カ月前に心臓の手術を受けた。そう聞いてもピンとこないほど、鮫島さんは姿勢美しく、朗らかな表情を浮かべ、ご自宅のリビングでくつろがれていた。

「手術に6時間もかかってしまって、お医者さまに『さぞおなかがおすきになりましたでしょう』とお声を掛けたら、『患者さんからおなかの心配までされたのは初めてですよ』と先生方は爆笑でした」

そう言ってほほ笑む。手の込んだオレオレ詐欺に引っ掛かってしまったときも、事情聴取で犯人の暗転するであろう人生や親御さんの心情に心を寄せると、警察官に「詐欺に遭って犯人の人生を心配する被害者なんてあなたが初めて」とあきれられたとまた笑う。どんな苦労話も、鮫島さんにかかるとウイットに富んだ笑い話になってしまうから不思議だ。

日本資本主義の父といわれる渋沢栄一を祖父に持ち、今では「祖父と直接肌を触れ合った唯一の生き残りは私ぐらい」とか……。だが、祖父の偉業を知るのは他界後のことで、生前は「優しいおじいさま」という印象しかない。

「母が達筆だったので、お礼状代筆を祖母に頼まれ、よく行っていました。私もついて行くと『よう来られたな』と頭をなで、あめ玉を口に入れてもらいました」と振り返る。怒られたり、注意されたりしたこともなく、周りの大人が「危ないから」と注意するようなおてんばをしていても、それを笑顔で見守っていたという。

「けがをするのも勉強と思っていたのかもしれません」と語る鮫島さんが、祖父を渋沢栄一として意識したのは亡くなられた直後だ。祖父、栄一の容態を毎日のように新聞が報じた。4日間も続いたお通夜には、大勢の弔問客の中に各界の著名人の姿があり、天皇陛下の勅使が陛下の御言葉を読み上げるなど、当時、9歳だった鮫島さんを圧倒するには十分すぎる光景だった。

「他の家のおじいさまと比べるなんてしませんでしょう。葬儀を通じて、どうやら私のおじいさまはすごい人らしいと認識しました」

助け合い、思いやる心を戦争体験を経て痛感する

姉、兄、妹の4人兄弟で、おてんばを止められることなく、のびのびと育ったという鮫島さん。だが、使用人らから「もしものことがあっては」と、近所の子どもたちと遊ぶことを禁じられてしまう。寂しい思いとともに、自分は他の人とは違うのかなという優位性も芽生えてしまったと自己分析する。そして、その思いを打ち砕かれたのは結婚してすぐに直面した戦争体験だった。

1941年20歳で岩倉具視(ともみ)の曽孫、鮫島員重(かずしげ)氏と結婚した純子さんは、披露宴当日に思いがけない東京最初の空襲に遭った。花嫁衣装のまま防空壕に避難し、その後名古屋に引っ越して1年が過ぎたころ、ご主人が外地に出張中に、またしても空襲で逃げ惑うことに。幼い子ども3人を抱え、不慣れな土地で身寄りもない中、手を差し伸べてくれたのは近所の人たちだった。限られた食糧を分け合い、空襲時には防空壕(ごう)で肩を寄せ合い、力を合わせて火消しをするなどして窮地を乗り越えることができた。

「疎開先や転居先でもたくさんの方々のお世話になりました。助け合いや思いやりのありがたさを、このとき、本当に身に染みて感じました。結婚後わずか5カ月後の父の急逝、空襲、窮乏生活のやりくりは、私が人並みになるために必要な経験であったと思います」

そして栄一が晩年、多くの事業から退く中、世界平和に尽力した精神を受け継ぐかのように、鮫島さんも「世界が平和でなければみんなの幸せはなく、世界の幸せがなければ自分も幸せにはなれない」と思い至るようになる。

「でも、そう思えるようになるには随分時間がかかりました」と笑い、戦争と同じぐらい大きな転機が40歳前にあったと話を続ける。

「『四十にして惑わず』なんて言いますが、母親として至らない自分、すぐ思い悩んで心が揺れてしまう自分に不甲斐(ふがい)なさを感じていました。そんな時、主人のいとこから薦められた本が、私の人生観を大きく変えてくれたのです」

日々感謝の気持ちを忘れないことが健康の秘訣

渋沢家に生まれ、栄一の孫として、常に周囲の目があった鮫島さんが感銘を受けたのは、合気道の開祖、植芝盛平氏とも親しい間柄で知られる宗教家、五井昌久氏の著書だった。「肉体は期間限定の借り物であり、自分自身の魂は何度も異なる環境で生まれ変わっては磨かれていく」といった内容が、鮫島さんの心に響いた。今回の生涯で学ぶ課題として、自らが選んだ境遇である。そう解釈することで、自分自身と折り合いをつけられたのかもしれない。

「祖父の著書に『論語と算盤(そろばん)』がありますが、明るく前向きに生きろと説く論語は私には高尚すぎて、なかなかできることではありませんでした。でも、五井先生の著書、ご本人との出会いを通して、ポジティブな考え方や世界人類の平和を祈ることを折りに触れ繰り返すことで、論語にも通じる精神が培われていったように思います」

話し始めて1時間以上が過ぎても、疲れた顔一つ見せず、背筋もすっと伸びたままで姿勢が崩れることがない。90歳を過ぎていらっしゃることを忘れてしまうほど、人名や年号もスラスラと口にし、話も尽きることがない。自然と話題は健康と長寿の秘訣(ひけつ)に広がるのだが、日々、どんなことでも感謝の気持ちを忘れないことが、体を健やかにしてくれると強調し、それを前提に体を動かすことや食生活にも気を配られているという。

「骨折入院はしましたが、大病はもちろん風邪もほとんどひいた記憶もないですね。それも荘先生の健康指導のおかげです」

鮫島さんが「荘先生」と慕うのは、台湾出身の医学博士、故・荘淑旂(そうしゅくき)氏で、夫婦で毎朝、明治神宮へ参拝がてら散歩していた折に出会った人物だ。特にがんについて精通しており、2001年には台湾政府より国民の健康向上活動の功績で褒賞を受けた名医。教わった健康法や食生活、睡眠などを日々の暮らしに取り入れ、35年が過ぎる。

「出会った当初、夫婦そろって、『歩き方が汚い』と注意されて、姿勢を正すと内臓の働きが良くなることや、体にいいものを取ることより排せつする重要性、朝昼晩の食事は3対2対1を心掛けるなど、さまざまな指導が今に生きています」

80歳で社交ダンスを始め、周囲を驚かせた鮫島さん。今は「目標に向かって進むというより、生かされている私自身の役目を全うすることに尽きます」と語る。

今日も感謝に満ちた朝を迎える、鮫島さんの姿がある。

鮫島 純子(さめじま・すみこ)

エッセイスト

1922年東京都生まれ。祖父は日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一氏、父は栄一の四男で実業家の渋沢正雄氏。42年に鮫島員重氏と結婚し、男児3人をもうける。83年に夫婦で朝の散歩を始め、医学博士の荘淑旂(そうしゅくき)氏に出会い、健康法を日々の暮らしに取り入れて過ごす。講演や雑誌の寄稿も多数で、著書に『祖父・渋沢栄一に学んだこと』(文藝春秋)、『忘れないで季節のしきたり日本の心』『毎日が、いきいき、すこやか』(ともに小学館)などがある。

写真・後藤さくら

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