花坂印刷工業
岩手県宮古市
倒産した地元新聞社の印刷機
岩手県の三陸海岸沿いにある宮古市は、江戸時代初期の1615年には盛岡藩の藩港が築かれるなど、港を中心に発展してきた。このまちで花坂印刷工業は、明治35(1902)年に宮古活版所として創業した。創業の経緯は少々変わっていると、同社の四代目で、現在は会長を務める花坂康太郎さんは言う。
「私の曽祖父はもともと酢の醸造で成功していて、町会議員も務めていました。また、宮古の商店の大旦那たちからお金を集めて信用組合を立ち上げるなど、なかなかの人物だったようです。そんな中、明治35年に、宮古に新聞社を創業した若者に融資をしたところ、結局はうまくいかずに倒産してしまった。曽祖父は責任を取って借金を肩代わりして、その代わりに新聞社の印刷機を引き取りました。それで自分の息子に印刷会社を始めさせたのです」
印刷会社を任された二代目は、昭和初めに40歳過ぎで早逝してしまったため、その息子が三代目として後を継いだ。当時は三陸海岸の港を北海道や東京と結ぶ定期貨物船が運航しており、さまざまな物資や人、文化が宮古に入ってきていた。そのため、役場の書類や今でいうタウン誌など、印刷物の受注も多かった。
「昔の印刷物は東日本大震災で流されてしまいましたが、一冊だけ、昭和9(1934)年につくった宮古の観光案内が残っています。中を見ると、今のガイドブックと内容が全然変わらない。何十年たっても人がやることは変わらないんだなと、見ていてとても面白いです」
父親の仕事は「青年会議所」
康太郎さんの父親である三代目は、商売っ気があまりなかったと言う。
「うちは代々、会社を大きくしようとか、一もうけしてやろうとか、そういった欲がほとんどない。私の父も市会議員をやっていて、そちらの仕事も忙しかったし、市役所から仕事の注文を取ってくることもしませんでした。そのへん、親父は立派だったんだか、欲がなかったんだか」
三代目は、地域のおかげで商売が成り立っていると考え、お金をかけて新しい技術や設備を導入することもなく、戦前の印刷形態を何十年と続けていた。康太郎さんが東京や盛岡の印刷会社で修業し、20代半ばで宮古に戻ってきたときには、これまで働いてきた印刷所との違いに改めて驚いたという。
「機械があまりにも古かったので、私が戻ってから全部入れ替え、新しい技術を導入していきました。寅さん映画に印刷屋が出てきますが、最初のころは活字を組んで手で印刷していた。それから活版印刷になって、最後の方ではオフセット印刷機に変わっていた。印刷機の移り変わりが、まるでうちの歴史を見ている感じなんです」
そう笑う康太郎さんも、30代で青年会議所の活動を始め、40代で宮古商工会議所の議員となり、今は会頭になって4期目となる。康太郎さんの長男で、今は社長を務める雄大さんが子どものころ、小学校の文集で父親の仕事を書く欄に「青年会議所」と書いたほど、本業よりも公の活動に力を注いできた。
新規事業で地域の活性化へ
その雄大さんは、以前は後を継ぐことを全く考えていなかった。
「印刷業が斜陽産業になりだしていたので、父自身、私に後を継がせようとは考えていなかったと思います。でも、どこで心変わりしたのか、自分の代で終わらせるのがもったいないと思ったのだと思います。父と一緒に会社をやっていた叔父が亡くなったのを機に、仙台で働いていた私に戻ってくるよう言ってきました」
入社して3年目の2011年、震災が起こった。本社と工場は津波で流され、2年半は仮設工場での操業を余儀なくされた。そして、震災をきっかけに雄大さんの自社の印刷業に対する意識も変わった。
「震災後のゴールデンウィークに、新聞の折込広告で市内企業の安否情報を出しました。顧客から会社がなくなったと思われ、市外の企業に仕事を発注されてしまってはいけないと思ったからです。こういうときにそれを知らせるノウハウを持っている印刷業は、続けていかなければいけません。今年からは、情報加工業の新規事業を立ち上げ、印刷以外のさまざまなメディアを使って宮古の情報を発信していきます。これによって宮古のために役に立てればと思っています」
さらに雄大さんは、宮古の青少年や若者のキャリア教育や社会活動を支援するNPO法人「みやっこベース」の副理事長も務める。本業だけでなく社会活動にも力を入れるところは、雄大さんも先代たちの血をしっかり受け継いでいる。
プロフィール
社名:花坂印刷工業株式会社(はなさかいんさつこうぎょう)
所在地:岩手県宮古市新川町1-2
電話:0193-62-3125
代表者:花坂 雄大 代表取締役
創業:明治35(1902)年
従業員:10人
【宮古商工会議所】
※月刊石垣2022年3月号に掲載された記事です。
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