河合 純一 (かわい・じゅんいち)
1975年静岡県生まれ。全盲の元日本代表スイマー。2020年1月から日本パラリンピック委員会委員長
パラリンピックはコロナ禍の影響で2021年に夏季東京大会、翌22年に冬季北京大会と約半年での開催となった。前例のない難しい状況下で行われた両大会で日本代表選手団団長を担ったのが日本パラリンピック委員会(JPC)の河合純一委員長だ。
「パラリンピックは人間の可能性の祭典」と語る。自身も生まれつき左目の視力がない中、5歳で水泳を始め、15歳で全盲となったが、17歳だった1992年、バルセロナ大会で初出場を果たす。以降、12年ロンドン大会まで6大会で金メダル5個を含む、日本人最多の21のメダルを獲得。アジア人初の「パラリンピック殿堂」入りも果たしたレジェンドだ。さらに競技活動と並行して教師になる夢も叶(かな)え、現役引退後は複数の要職を兼務。前向きな思考やひたむきな努力で逆境を打開し、人間の持つ大きな可能性を自ら示してきた。
20年1月末、東京大会団長就任時は「会場を満員にし、選手たちが最高のパフォーマンスをできるよう尽力したい」と意気込んだ。大会の1年延期が決まり、揺れる選手たちには、「できないではなく、どうすれば、できるかを追求し突き進むパラアスリートの真骨頂を今こそ発揮しよう」と力づけ、道を示した。
東京大会はほぼ無観客開催となったが、応援の力をよく知る河合団長は12日間で22競技全ての会場に足を運び、拍手で選手たちを鼓舞し続けた。日本代表選手団は金13個を含む51個のメダルを獲得。「有意義で大きな成果を挙げられ、共生社会への一歩を踏み出せた」と目を潤ませた。
パラリンピックはパラアスリートの世界最高峰の競技会であると同時に共生社会実現のきっかけとしても期待されている。自身が思い描く共生社会の姿は、材料をすりつぶして混ぜた「ミックスジュース型」でなく、素材の色や形、味わいを生かした「フルーツポンチ型」だ。「互いの個性や違いを認め合い、そのままの姿で輝ける社会を目指したい」と力を込める。
見据える先は「スポーツや教育を通じた社会の改革」だ。「やってみなければ分からない。できなかったら、次にまた、どうすればできるか考えればいい。可能性を広げるのは自分次第だ」。唯一無二の経歴を持つリーダーの、信念は揺るがない。
パラスポーツを通じた、活力ある共生社会の実現をめざして
日本パラリンピック委員会
日本パラリンピック委員会は日本における障がい者の競技スポーツを促進することを目的に1998年長野冬季パラリンピック後の99年8月、日本障がい者スポーツ協会(現・日本パラスポーツ協会)の内部組織として、厚生省の認可を受けて発足。国際パラリンピック委員会など国際競技団体に参画し、競技大会への日本代表選手派遣や選手強化などを担う。2022年1月現在、JPC加盟競技団体数は62。
日本パラリンピック委員会競技紹介ページはコチラ ▶ https://www.parasports.or.jp/paralympic/#
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