野菜のオリジナル品種を開発
愛知県北西部、岐阜県との県境を流れる木曽川に面した江南市で、松永種苗は野菜の種子や苗の育種、生産、卸販売を行っている。明治16(1883)年に初代・松永金次郎が、養蚕用の桑苗や山林苗の卸問屋として創業した。現在では、野菜のオリジナル品種を数多く開発し、農産物の改良、多様化に貢献している。
「戦前この辺りでは、隣の大口町から小牧市にかけての畑が大根の種を採るのに最適な場所だったことから種を扱う店が多かったんです。そこで、戦時中に後を継いだ二代目金次郎が、本格的に種を扱うようになりました」と、同社の会長である四代目金次郎さんは言う。同社では代々、代表者が金次郎を襲名している。
戦時中、野菜の種は政府の統制品となり、種を扱う店は激減したが、二代目は家業を続けていった。そして昭和37(1962)年には近くに研究農場を開設。のちに後を継ぐことになる三代目が中心となって、野菜のオリジナル品種の開発を手掛け始めた。
「その最初の成果が加工用トマト『早生(わせ)だるま』です。これは大手食品メーカーの依頼で開発したもので、できた種をメーカーに納め、その種を使って農家さんがつくったトマトが、ケチャップやトマトジュースの材料に使われました」
昭和43年に誕生したこのトマトは、実の中まで真っ赤なのが特徴で、支柱を立てる必要がないため普通のトマトほど手間が掛からず、収穫もヘタを株に残して実だけ採れることから、加工用トマトの代表品種となっていった。
10年以上かかる品種開発
その後も、昭和44年には秋に収穫可能な絹サヤエンドウ「白姫」、51年には全国的な大ヒットとなった総太り大根「宮重1号」、61年には多収性で早生性の砂糖エンドウ「白星」など、さまざまなオリジナル品種を発表していった。
「新しい品種の開発は交配を重ねていくため時間がかかり、完成までに最低でも10年以上かかります。しかし、これまでの長年の積み重ねで遺伝子情報が蓄積されているので、うちでは10年以下、早いものだと6~7年でできるようになっています」
そう説明する四代目金次郎さんは、父である三代目が急逝し、38歳で後を継いだ。それから28年がたち、長男が38歳になったときに社長の座を譲り、自身は会長となった。「うちは息子が3人いるのですが、兄弟でやると騒動の元だから、会社を継ぐのは長男一人でいいと。私が死んだら金次郎を襲名するよう、もう遺言も遺してあります」と四代目金次郎さん。
一方、社長になって2年になる真一郎さんは子どもの頃、後を継ぐのは嫌だと思っていたという。だが、大学に入り20歳を超えた頃から自覚が出てきた。
「父から後を継げとは言われることはありませんでしたが、子どもの頃は祖父母には大事にされていました(笑)。将来は後を継ぐのだろうというのは無意識のうちにあったのだと思います」
真一郎さんは大学を卒業すると、オランダの農業関連の会社で1年働き、外の世界も見るために大阪の広告会社で3年半働いた。同社に入ったのは27歳のときだった。
社長の権限は全て移譲
「後継ぎとなる息子が会社に入ったら、社長が業界の会合に連れていって、うちの息子をよろしくとあいさつするのが普通だと思いますが、私は何の引き継ぎもなしに営業マンとして一人で外に出されていました。父から教わるのではなく、自分で見て覚えていくというか、お客さんからいろいろ教えてもらっていたようなものです」と真一郎さんは笑う。
一方の四代目金次郎さんはそれについてこう語る。「私は父が突然亡くなり、親がいない中で社長になったので、それと同じ状態でやってもらえたらと。その代わり、息子が社長になってからは、全ての権限を移譲して、私は何も言わないようにしています。私が口出ししたら、社長のためにならないと思っています」
真一郎さんは、会社のことで父親に相談を持ちかけることはないが、家で一緒に食事をする際に、会話の中でそれとなく会社の状況を伝えているという。
「こういう時代になって右往左往している周りの会社を見て思うのは、守るべきことは、新たな品種を開発して販売していくという、種屋としての本質だと思います。今後の発展のためには開発期間を短くしていくことが鍵になるので、産学官連携などでいろいろなところと技術開発、共同研究をやっていきたいです」(真一郎さん)
同社では、栽培のしやすさや耐病性だけでなく、野菜の味にもこだわりながら、これからも新たな品種の開発を続けていく。
プロフィール
社名:松永種苗株式会社(まつながしゅびょう)
所在地:愛知県江南市古知野町瑞穂3
電話:0587-54-5151
代表者:松永真一郎 代表取締役
創業:明治16(1883)年
従業員:約30人
【江南商工会議所】
※月刊石垣2022年10月号に掲載された記事です。
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