過去約30年間、わが国の賃金上昇ペースが極めて緩慢だ。経済協力開発機構(OECD)による米ドルベースの平均賃金の推移を見ると、1991年から2021年までの間、わが国の平均賃金の上昇率は4・87%だった。同じ期間中、OECD加盟国の平均は34・81%増だ。米国は52・15%、英国は50・58%、韓国は85・62%、ドイツは33・67%と大きく増加した。
また、国税庁が発表している民間給与実態統計調査結果によると、1年勤続者の平均給与額は91年が446万6000円だった。97年に過去最高の467万3000円に増加した後は、むしろ右肩下がりの傾向にある。21年の給与額は443万3000円だ。賃金の伸び悩みは、失われた30年と呼ばれるわが国経済の状況と整合的ともいえる。
わが国の給与水準の上昇が緩慢な背景にはいくつかの要因がある。その一つは、非正規雇用者の増加だ。90年代初頭のバブルの崩壊後、わが国の経済環境は悪化した。不良債権処理も遅れた。97年には"金融システム不安"が発生した。99年2月には、日本銀行が政策金利である無担保コール翌日物の金利をゼロに引き下げた(ゼロ金利政策)。その後、一時的にゼロ金利政策が解除されたが、今日までわが国では超低金利環境が続く。経済は長期の停滞に陥った。
企業は生き残りのため、コスト削減を余儀なくされた。一つの方策として、人件費を抑えるために非正規雇用を増やした。それによって既存の事業体制を維持し、正規雇用の大幅な削減を回避したともいえる。結果、雇用者に占める正規雇用者の割合は低下し、非正規雇用の割合が上昇した。90年2月、就業者における正規雇用の割合は79・8%、非正規が20・2%だった2022年7~9月期の平均値で正規雇用は62・8%、非正規雇用が37・2%だ(90年2月の数値は労働力調査特別調査、22年7~9月期は労働力調査詳細集計、いずれも総務省発表)。厚生労働省が発表した賃金構造基本統計調査によると、21年時点で正規雇用者の賃金を100とした場合、非正規雇用者は67・0にとどまっている。また、わが国の賃金の決定手法は、多くの企業で旧来の制度が続けられてきた。新卒で就職して定年まで勤め上げる"終身雇用"と、年功を重ねるごとに賃金が上昇する"年功序列"を続ける企業は多い。そうした雇用慣行は、経済環境の変化や労働者の能力に応じた雇用形態への転換を、ある意味では押しとどめる要因になっているとも考えられる。
そうした閉塞感を打破するためにも、今後、わが国は本格的な労働市場の改革により取り組む必要があるだろう。同一労働・同一賃金の考えを徹底するのもその一つだ。同じ内容の職務に従事する人が、その成果によって評価されるのはむしろ自然だ。欧米の労働市場では、個々人が専門技能を磨き、より高い賃金を求めて働き先を変えることが多い。さらなる成長、自己実現、社会貢献などを目指して起業する人もいる。企業側は、優秀な人材に長く働いてもらうために、人材の成果に応じて賃金を支払わなければならない。当然、仕事の成果や質に応じて給与水準は上昇することになる。それに対して、経済が長期停滞に陥ったわが国では、成長を目指すよりも守りの心理を強める人が増えた。雇用という地位を失うことに抵抗感や不安を強める人が増加したともいえるだろう。
今後、わが国で持続的な賃金上昇を目指すためには、終身雇用・年功序列などの雇用慣行から徐々に脱却することが必要になるだろう。それによって、正規・非正規の賃金格差を是正し、スキルや成果に応じて人々が所得を得る環境整備につなげるべきだ。それと同時に、政府が規制緩和を行うなどして労働市場の流動性を高めるなど構造改革を行い、学び直しの制度の拡充などの政策運営が必須になるはずだ。遠回りに見えるかもしれないが、わが国全体で賃金の伸び悩みを解消するためには、本格的な労働市場の改革は必須の要件になるだろう。 (2022年12月14日執筆)
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