「自分の店にも、まちにも、そして家族にとっても本当に良い取り組みです」
静岡市で100年続く刃物専門店「政豊」を営む沼田千晴さんは、2階にある店舗から3階へ続く階段を上りながらこう言った。
「3階には数年前まで母が独りで暮らしていたんですが、まさかこんなふうに変わるなんて」と言いつつ、「ビル泊」と書かれたプレートの掲げられた扉を開ける。
すると、そこには別世界が広がっていた。
まちの空き店舗を観光拠点に再生
全国の商店街で長らく課題となっている「空き店舗」。とりわけ2階以上の空中階は賃借需要も少なく、空いたままの所が少なくない。一方、国内旅行ではマイクロツーリズム、インバウンド旅行では体験型観光需要の高まりから、商店街が新たな観光資源として期待されているが、ほとんどが宿泊施設を持たない。
これら二つの課題を解決する手法として注目を集めているのが、静岡市で興ったまちなか分散型ホテル「ビル泊」だ。既存のホテルにはない体験の提供を特徴とし、さまざまな観光ニーズに対応し、商店街にも新たなビジネスチャンスをもたらしている。
静岡市の中心街は古くから商業地として栄え、市民からは親しみを込めて「おまち」と呼ばれる。しかし、ご多聞に漏れず来街者数の減少は止まらない。そこにコロナ禍が襲い、空き店舗はさらに増え、しかも新しい入居希望者は現れにくくなっている。
そんな状況を打開しようと新たな事業を立ち上げた事業者がいる。静岡市内で事業用不動産の仲介などを行うCSA不動産の小島孝仁さんが着目したのが、「観光客」という新しい消費者の創出であった。これまでにも、市内の港町・用宗(もちむね)で土地の持ち味を生かした観光開発で実績を上げていた。
「用宗で得た経験から、宿泊や観光が静岡の経済を元気にできると手応えをつかんだものの、まちなかのどこでやれるのかと考えながら空を見上げたら、商店街の空中階にありました」
同社は商店街に点在するビルの空き店舗を客室としてリノベーションし、従来のビジネスホテルとはまったく異なるコンセプトを持つ客室として再生。2020年3月、コロナ禍の逆風の中、4カ所7室で「ビル泊」が始まった。
冒頭の「政豊」もその一つだ。オール静岡で組織される「アイラブしずおか協議会」の会長としてまちのにぎわいづくりに汗をかく彼にとって、自らも投資して「ビル泊」に取り組むことは極めて自然なことだった。
三方よしの事業でまちの課題を解決
ビジネスモデルとしては、家主が費用を負担して物件を補修・改装し、それをCSA不動産の子会社が借りてホテル業務を受け持つ。家主は家賃を受け取りながら初期経費を返済していくというものだ。
家賃は相場より若干低めだが、長期間にわたる賃貸が前提だから、家主は空き店舗の悩みから解消される。しかも設備が更新されることで建物の寿命も延ばすことができる。家主、事業者、そしてまちの三方よしの事業モデルといえよう。
宿泊客もこの事業の受益者だ。ビルの外観からは想像できないラグジュアリーな室内演出が客室ごとに施され、まるで大人の秘密基地のような非日常空間が広がる。一歩外に出れば、まちが本来持つ魅力を発見でき、味わうことができる。
たとえば「政豊」の客室は約80平方㍍に最大7人が宿泊できるグループルームで、家族や友人とくつろぎながらゆっくり過ごせる。部屋からは商店街が見下ろせ、宿泊者専用の屋上テラスではバーベキューも楽しめる。
「宿泊客が店に興味を持ってくれて、買い物をしてくれるようにもなりました。観光に訪れるお客さまを増やせば、まちにももっとにぎわいが戻ると期待しています」と、沼田さんは手応えを実感する。
現在、客室は6カ所10室に増加。静岡のおまちはこれまで負の資産とされてきた「空き店舗」を活用することで、観光地として新たなにぎわいと需要を着実に創出し始めている。
(商い未来研究所・笹井清範)
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