炭を通じた土佐との結びつき
大阪府堺市は、仁徳天皇陵をはじめ数多くの古墳があるだけでなく、江戸時代以前から外国貿易の拠点であり、“商人のまち”として栄えてきた。熱処理加工業のダイネツは、初代の葛籠屋(つづらや)安兵衛が文化10(1813)年にこの地で炭問屋を創業したことから始まった。当時、堺では刀や包丁の鍛冶が盛んで、鉄を熱するための炭が大量に必要とされていたという。 「実は葛籠屋は室町時代に堺で瓦を焼いていたという史料があるのですが、1615年の大坂夏の陣で堺が焼き討ちされたこともあり、その後200年間の記録はとびとびでしか残っておらず、以前の葛籠屋と今のうちとの関係が立証できません。残っているのは文化10年の看板だけですが、この年を創業年にしています」と、初代安兵衛から数えて十代目の、ダイネツ会長の葛村和正さんは言う。
堺では土佐から炭が入ってきたため、江戸時代から葛籠屋と土佐は強い結びつきがあった。幕末には土佐藩士で大政奉還に尽力した後藤象二郎は、七代目安兵衛と縁戚関係にあったことから葛籠屋に投宿していた。その後藤が大阪府知事になると、葛籠屋から馬車で知事公舎に通うこともあった。また、同じく土佐出身で三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎とも交流があり、七代目は岩崎に堺の商いを説いていたという。 「後藤象二郎と安兵衛は、奥さん同士が姻戚関係だったのですが、それ以前から葛籠屋は土佐の人たちに多くの資金を出していました。そのため葛籠屋と土佐の関係は非常に強かったのです」
大口受注から小口受注へ
昭和9(1934)年、炭に替わり石炭が燃料に使われるようになると、石炭を高温で蒸し焼きにしてつくるコークスの製造に参入。事業は順調だったが、戦争に入るとコークスは生産統制のためつくれなくなり、コークスをつくる炉が空いてしまった。 「そこで戦時中の19年に大阪兵器熱工株式会社を設立し、炉を使って軍用機のプロペラやエンジン部品の熱処理を始めました。翌年の終戦後には社名を大阪熱工に変え、工作機械部品の熱処理加工を行うようになりました。以来、一貫して炉を使った事業を行っています」と葛村さんは言う。戦後は、さまざまな熱処理に対応できる技術や設備の導入を進めていった。
熱処理とは鉄鋼を加熱・冷却して、硬さや性質を変化させる処理のこと。処理された鉄鋼は細かい部品から大型の建築材までさまざまな用途で使われる。大阪熱工は34年に大型天井クレーンを導入し、大型重量物の熱処理加工を始めた。一時は造船会社をメインに大手6社からの受注だけで売り上げの8割以上を占めたが、造船不況に陥ると注文が激減した。 「そこで事業の転換が必要になり、小口注文の顧客開拓を進めて、得意先を500社にまで増やしました。それらは細かな仕事が多く、1社当たりの売り上げは最高でも1千万円もいきません。今は事業を分類して、ダイネツでは大物の熱処理を、M&Aしたグループ会社では小物を扱っています」
脱炭素化の対応をチャンスに
葛村さんは大学を卒業後、鉄鋼会社に入社し、31歳で大阪熱工に入社。グループ会社となるダイネツ商事とダイネツ鋼板などの設立を進め、平成3年に先代社長である父親が亡くなったために、38歳で社長に就任した。そして、その翌年にダイネツに社名変更した。 「熱処理だけではいつまでも下請けでしかない。そこで、材料も扱うための商事会社や設計会社を設立しました。いわば第二創業です。さらに熱処理工場もこれまでの信頼と信義から任されました。今では商事会社や買収した工場の方が利益を上げていますが、当社の本筋である大型炉は守っていきます。守るべきものを守ることで伝統はつくられるのですから」
熱処理は大量の燃料を消費するが、脱炭素化や環境保護が求められている近年、新たな技術や設備の導入が喫緊の課題となっている。 「脱炭素化への対応は一時的には大変ですが、逆に合理化できて、もっと良い方向に持っていける。オイルショックで省エネを強いられたときもそうでした。むしろチャンスと捉えています」
そして、葛村さんがこれからも守っていこうと考えているのは大型炉だけでなく、地域の信用も守るべき重要な財産だという。 「当社の200年以上の歴史は、地域とともに築いてきたものです。伝統だけでなく、その信用と信頼を次世代につなげることも重要です。そのためにも誠実に着実に、会社は続けなければいけません」
炉を使った熱加工という本業を次世代につなぐためにも、ダイネツは新たな技術に挑んでいく。
プロフィール
社名 : 株式会社ダイネツ
所在地 : 大阪府堺市堺区柳之町西3-3-1
電話 : 072-229-0223
代表者 : 葛村 肇 代表取締役社長
創業 : 文化10(1813)年
従業員 : 約100人
【堺商工会議所】
※月刊石垣2024年4月号に掲載された記事です。
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