東洋の世界観は身体感覚に基づく。対して西洋のそれは体感を超える。一例が度量衡の単位の求め方である▼
尺という長さの単位は古代中国に由来する。手のひらをいっぱいに広げたときの、親指の先から中指の先までの長さを1尺とした◆
一方1メートルの長さは地球の子午線の4千万分の1である。1792年にフランスが経度0度の本初子午線(当時はグリニッジでなくパリを通っていた)上のダンケルクとバルセロナ間で三角測量を重ねて1メートルの長さを決めた。1875年のメートル条約で世界基準となった▼
1メートルが決まると、一辺が10センチの立方体の体積を1リットルとし、摂氏3・98度の水1リットルの重さを1キログラムと決めた。これらの精密な単位がなければ、課税の公平や円滑な商取引が進まなかったし、何より科学が進歩しなかった。長さがすべての基準だからこれを(日本が採用していた)尺貫法に対してメートル法という▼
むろんメートル法の科学的合理性に疑問の余地はない。だが度量衡の統一は「地方的慣行の支配する生活世界を解体し、均質な市民からなる国民国家の形成を目指すものだった」(阪上孝『〈はかる〉科学』(中公新書)という意味でフランス革命の所産であった▼
フランスにはローカルな単位がいくつもあった。いまも日本には身体に基づく尺貫法が日常生活に生きている。酒の大瓶は「一升瓶」だし、土地の面積は「坪」換算が体感に添う。洋室でも広さは「一畳」の倍数である▼
西洋にもフィート(足の長さ由来)を含むヤード・ポンド法があるが、メートル法というグローバル・スタンダードの裏側に、地域や文化ごとに、目的に応じた度量衡がいまも生きている。
(コラムニスト・宇津井輝史)
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