龍角散
東京都千代田区
もともとは秘伝の藩薬
江戸時代、将軍や諸藩の大名に仕える医師を「御殿医」と呼んだ。龍角散の原型は、久保田藩(現在の秋田県)で御殿医を務めていた藤井玄淵が、江戸時代中期に薬を調合したことに始まる。幕末になって三代目の正亭治が藩主・佐竹義尭の持病である喘息(ぜんそく)を治療するために改良を加え、これが『龍角散』と名付けられた。この名前は「龍骨・龍脳」「鹿角霜」といった生薬の名称と「散剤」に由来している。龍角散の八代目当主で、同社代表取締役の藤井隆太さんは「そのときは、まだ秘伝の藩薬で一般に売られていませんでした。当時の武士の日記に、子供の咳を治すために龍角散を苦労して手に入れたという記述があります。値段が食事50回分もしたそうで、高級薬だったようです」と説明する。
明治維新後に藤井家は藩主とともに東京に移住。明治4年の廃藩置県により、藩薬だった龍角散は藤井家に下賜され、三代目正亭治は東京・東神田で薬屋を開業した。そして龍角散を桐箱に入れて一般に売り出すと、たちまち大人気となる。さらに四代目の得三郎がドイツ人の薬学の権威から製剤技術を学び、26年に微粉末状の龍角散を開発。その形は現在でも受け継がれている。「家内工業的につくっていた秘伝薬を化学的に分析して、工業化したのです。しかし、それでは当時は値段が高く、一般向けに売れない。そこで製造にかける人数を減らしてコストを抑え、販売は問屋さんに委託した。その分メディアを通じて宣伝していくという戦略をとることにしたわけです」(藤井さん)
龍角散は全国紙に広告を出し、問屋を通じて販路を全国に広げていった。今でこそ当たり前の方法だが、当時としては珍しかったという。戦後になってからも、開始間もないテレビ放送や、新聞とテレビで積極的に龍角散を宣伝していった。「こんなことは当時の製薬会社で、やっている所はなかった。うちはアメリカでマーケティング戦略などが始まるはるか前からそれをやっていたわけですね」
この戦略が功を奏し、「ゴホン!といえば龍角散」の有名なフレーズとともに秋田の藩薬は知名度を上げ、全国に広まっていった――。
新社長を待ち受けていた危機
現社長の藤井さんは、3歳でバイオリンを始めて以来、音楽の道を歩み続け、フランスに留学してプロの音楽家となっていた。会社を継ぐつもりはなかったのだが、帰国後、父親である先代社長に説得されて製薬会社に就職。その後は総合化学メーカーを経て、平成6年、龍角散に入社した。1年間現場で働いたあと、35歳で社長に就任した藤井さんを待っていたのは、会社の危機的な状況だった。
「会社の負債が、当時の年商とほぼ同じ40億円もありました。主力商品の龍角散の売り上げが落ち、新製品もことごとく失敗。にもかかわらず社内に危機感は全くなかった。老舗企業の保守的な雰囲気がはびこっていたのです」
過去の成功から離れる
藤井さんも一時は「これはもう無理」と諦めかけた。会社をつぶすことも考え、奥さまに相談を持ち掛けたという。すると、「ここまでこられたのはご先祖さまのおかげ、取引先や社員のこともある。ご恩返しもしなくては」という言葉が返ってきた。藤井さんは、「借金を返すまで、やれるだけやってみよう」と決意する。しかし、会社の古参役員たちの多くは非協力的だった。改革案はことごとく反対されてしまう。
「老舗なだけに変化を嫌うんです。龍角散はもう古臭い、使命を終えた商品だという意見まで出てくる。仕方がないので社員全体を説得するのはやめて小さなチームで挑戦を始めることにしました」
まず最初に龍角散の愛用者へのヒアリング調査を行った。すると、古臭いどころか、龍角散がなければ困るという人がいかに多いかが分かった。これで藤井さんは異分野への進出ではなく、龍角散ブランドを再構築しようとの思いを強くする。社内の古い常識、過去の発想から離れ、販売不振の製品は廃止し、水無しで飲める「龍角散ダイレクト」や「のど飴」などの新たな商品の開発を進めていった。
「あらゆる反対も寄せ付けず改革を進めていきました。これができるのはオーナー企業の最大の利点ですね」
その後の企業としての龍角散の躍進ぶりは、あらためて紹介するまでもないだろう。20年前に約40億円だった年商は、今ではその3倍、120億円超となっている。
「人体は若返ることができないけれど、企業は若返ることができる。最初は反対されても結果を出せば人はそれについてくるものです」
傾きかけていた老舗の劇的な復活。かつての藩薬は、これからも変わらず人々の喉を守っていく。
プロフィール
社名:株式会社龍角散
所在地:東京都千代田区東神田2-5-12
電話:03-3866-1177
代表者:藤井隆太 代表取締役社長
創業:明治4(1871)年
従業員:約150人
※月刊石垣2016年2月号に掲載された記事です。
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