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100年経営に極意あり!長寿企業の秘密 品質と安心を第一に伝統の製法を守る

太白永餅 金城軒

三重県四日市

江戸時代からにぎわう四日市の名菓

「いやぁ、先代から継いだのが9年ほど前で、それまでは家の歴史みたいなものに、そんなに興味が無かったんです。だから過去のことはよう知らんのですわ」と開口一番、豪快な笑いとともにこう説明してくれたのが、六代目社長の田中敏夫さんだ。JR四日市駅すぐそばの本町通り商店街に本店を構える太白永餅。その商品が買えるのは本店と近鉄百貨店の四日市店や近郊にあるジャスコなどに限られるため、平日の昼間でも近隣だけでなく、わざわざ遠くから太白永餅を求めて、客が引きも切らず訪れる。同社は慶応4(1868)年の創業。以来、頑固なまでに代々伝わる昔ながらの製法にこだわり「永餅」をつくっている。

太白永餅のある四日市市は、東海道の43番目の宿場町として栄え、幕府直轄の天領だった。また市内の日永の追分には伊勢街道との分岐点があることから、東海道を行き交う人々、お伊勢参りが目的の人々で、江戸時代からにぎわっていたという。

「もともと桑名から伊勢まではたくさんの名物餅が売られていて、『餅街道』とも呼ばれています。『永餅』は餡を餅でくるんで焼き上げ、薄く長く伸ばしただけの素朴なお菓子です。昔の人には丸いお餅よりこの方が荷物にならなかったんじゃないですかね」。古いことは知らないと言いながら、「永餅」の歴史を語る敏夫さんの言葉からは、老舗だけが持つ歴史と誇りがうかがえる。

太白を広く知ってもらいたい

昭和20年6月18日、四日市大空襲で全市の35%が焼失。太白永餅のある本町通り商店街一帯も焼け野原となってしまう。

「きれいさっぱり無くなったそうです。戦後もしばらくは材料が手に入らなくて、お茶碗などを売っていたと聞いています。再び永餅で商売をはじめたのが22年。そして、27年に今の店構えができました。私は25年の生まれですので、まさにこの店とともに生きてきたという感じですね」。そう語る敏夫さんだが、すんなりと家業を受け継いだわけではなかった。「人を使うより使われる方が気をつかわない」と大学を出た後、一度はサラリーマンになった。しかし、番頭格の人が辞めたとき、先代から店を継いでほしいという話が自然と出てきたのだった。もともと商売が嫌いではなかった敏夫さんは、「太白永餅」を継承する決意をする。

「入社してまずやったのは、とにかくうちの商品を多くの人に知ってもらうことでした。ほかのものと比べても、味と質には自信がありましたから、一度食べてもらいさえすれば、必ずうちの商品を選んでくれるようになると思いました。今でこそ、四日市の『永餅』というと、半分くらいはうちの名前が出てきますが、以前は、桑名のものなどの方が有名だったのです。『太白』は3分の1ほどの人しか名前を挙げてくれませんでした」

材料と製法にこだわる

小豆ともち米だけでつくるというシンプルな商品。だからこそ材料と製法にはこだわっている。厳選した北海道産の小豆と佐賀産のもち米を使い、一つずつ手づくりで焼きあげていく。しかし、20年ほど前、異常気象により小豆価格が高騰。大きな試練だった。「それまで60㎏2万円ほどだったものが10万円なんて、とんでもない値段になっていました。このときだけは、中国産の小豆を混ぜて、炊いて炊いて炊きこんで、ようやく味を落とさない餡ができて乗り切りました」。

こうした危機がありながらも、昨年の11月までは1個80円という価格を守ってきた。現在でも1個100円という低価格で販売しているが、近年の不景気は太白永餠にも大きな影響があったという。「よく食品は景気にあまり左右されないとかいわれますが、そんなことはありません。例えば会社関係のお使い物にされる額がグッと落ちてきて、それまでは5000円だったのに、3000円になってしまうとか……。景気の悪さはすぐに売上にひびきますから。逆に最近は、回復の兆しは見えてきてはいるんでしょうが、うちみたいな単価が安いところにはまだ恩恵がないですね(笑)」。

材料は国産。そして今でも、製餡機は使っていない。材料と手づくりにこだわるのは、何より「品質」と「安全・安心」を大事に考えているからだ。材料費を抑えようとすれば、いくらでも安い海外のものが入手できる。しかし、味が落ちたとなると、悪評はあっという間に広がる。獲得するには長い時間が必要だが、一瞬で失ってしまう、それが信用というもの。不当表示や食品偽装など、世間の食品業界を見る目は厳しいが、敏夫さんは揺るがない自信を持っている。

例えば、餅が薄いので、餡に水気が残っていると、皮が破れてしまう。だから、夏は炊きこんで水気をできるだけ取り除き、逆に冬は少しやわらかめにしているという。餡ひとつをとっても、実に細かい心配りがなされているのだ。

次世代にバトンを渡す

「永餅をつくっているのは、ここ本店だけです。生ものなので、3日しか日持ちしません。新しい工場や支店をつくったらという話は来ますが、自分の目が届く範囲でということだと、今の規模がちょうどいいのです。私の代の責務は、これを維持すること。その先のことは、若い世代が考えてくれるでしょう。若い層からは敬遠されがちですが、餡は食物繊維も豊富で糖分が脳を働かせてくれるそうです。和菓子はいいことばかりなんですよ」

そう笑顔で語る敏夫さんが紹介してくれたのが、息子で専務の裕基さんだ。裕基さんは「うちの永餅を使って新しいスイーツができないかと、いろいろ考えています。販路もネット通販を中心にもっと広げていきたいですね」と目を輝かせる。

暖簾を受け継ぐ次代の語る夢を、目を細めながら現当主が聞いている。永餅は伝統を受け継ぎながら新しい可能性を模索している。

プロフィール

社名:有限会社 太白永餅 金城軒

所在地:三重県四日市市本町6-7

電話:059-352-2463

代表者:田中敏夫代表取締役社長(六代目)

創業:慶応4(1868)年

従業員:15人

※月刊石垣2014年9月号に掲載された記事です。

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