筑後川の恵みあふれるまち
大川市は、福岡県の南西部、筑紫平野のほぼ中央にあり、九州一の河川である筑後川(別名・筑紫次郎)が有明海に注ぐ河口付近に位置している人口3万5000人の都市である。地名の「大川(おおかわ)」は、昔から多くの人々が「筑後川」を「おおかわ」と呼び親しんでいたことに由来するといわれている。
また大川市は、古くより筑後川がもたらす豊富な水と肥沃(ひよく)な土壌に恵まれ、さらに温暖多雨な気候によって、農業や漁業を中心に発展してきた。現在は、イチゴの生産量全国第2位の福岡県において同市は、〝あまおう〟の有数の産地となっている。一方、川によって山からの養分が注ぎ込み、宝の海ともいわれる有明海でのノリの養殖も盛んだ。また国内では有明海にのみ生息し、筑後川にしか遡上(そじょう)しない幻の魚「えつ」が獲(と)れることでも有名。「えつ」の旬は、5月中旬~7月中旬ごろまでの約2カ月間で、刺し身やから揚げなどは地元の食卓や同市を訪れる観光客を楽しませてくれる。
周辺に目を移すと、北東に久留米市、東に筑後市、南に柳川市、西は筑後川を挟んだ対岸に佐賀市と、複数の市に囲まれている。こうした状況から大川市のPR用販促ツールである「大川市を知る10箇条」の第2条では、「(前略)車で福岡空港まで1時間強かかるが、佐賀空港までは30分弱で到着。実にアクセス良好な都市です」と記載されており、「ほぼ佐賀県」と紹介されている。
石を投げれば当たる社長たちが活性化のキーマン
訪問先までの交通手段や時間を確認する場合、インターネット上で時刻表検索を行うことがある。訪問先の地名を入力し検索すると、大概の場合、訪問先地名と同じ駅名が表示されるが「大川」の場合は、他県の同名の駅が表示される。それはなぜか……、理由を大川商工会議所に聞いてみた。
「以前は国鉄佐賀線が市内を通っていましたが、国鉄民営化の際に廃線となりました。また、かつては地元の西鉄にも市内中心部を通る路線の計画がありましたが、それもなくなりましたので、今は市内中心部を通る鉄道はありません」(同所事務局)
そのため市内中心部への訪問や市内の移動には、車(公共交通機関としては路線バス)を利用することになる。移動中の車窓からは、米どころ筑紫平野の象徴である水田と、家具出荷額日本一を実感させられる〝家具〟〝木工〟〝製材〟などの文字の入った看板が、次々と目に飛び込んでくる。この看板の一つひとつが木工関係業者を表しており、その数約600社。これはそのまま同数の社長がいることを意味し、前出の「大川市を知る10箇条」の第7条では、そのことを「石を投げれば社長に当たる」と表現している。
こうした〝大川市〟の魅力を内外に伝え、同市の活性化の旗振り役を務めているのが、大川商工会議所の津村洋一郎会頭である。
「大川市の基幹産業である木工業は、少子化や長引く景気の低迷、生活様式の変化などにより売上は減少しています。さらに安価な海外製家具の流入などもあり苦戦しています。そのため、まち全体が活気をなくしているように感じます」と語る津村会頭。
活気を取り戻すための手立ては、何かあるのだろうか。
「一般財団法人大川インテリア振興センターと協同組合福岡・大川家具工業会の2団体が共同して、平成27年11月に東京ビッグサイトで開催された『IFFT/インテリアライフスタイルリビング2015』に、家具工業会より35社(当所会員含む)が出展しました。後日、関係者より『家具の産地・大川の振興と市場拡大の面で一定の成果があった』との報告を受けました。さらに出展企業の社長からは『この動きを確かなものにするため、続けて3年間出展したい』との要望もありました。これは明るい兆しです。当所としても福岡県・大川市と共に引き続き支援したいと思います」(津村会頭)
480年の伝統が〝今〟を支える
ここで大川が家具の産地となった歴史を振り返っておきたい。
筑後川の河口に位置する大川は、木材の産地・日田(大分県日田市)から下ってくる木材の集積地であったと同時に、全国から有明海に運ばれた物資を小舟に積み替えて筑後川の上流まで運ぶなど、水上交通の要衝地であったことから多くの船大工が住んでいた。こうした土地柄である大川の木工業の発祥は、今から480年ほど前の天文5(1536)年までさかのぼる。室町時代後期、いわゆる戦国時代初期のころ、榎津久米之介(えのきづくめのすけ・後に木工の祖と呼ばれる)が家臣の生活を支えるために、榎津町(現在の大川市榎津)在住の船大工の技術を生かして〝(榎津)指物(さしもの)〟をつくらせたことが始まりといわれる。〝指物〟とは「釘(くぎ)などを使わずに木と木を組み合わせてつくった調度品や建具のこと。机やたんす、箱などが代表的なもので、非常に高い技術を要するもの」として、現代に継承される技術が詰まっている。
その後、江戸時代中期(1700年代半ば)になると、造船や水田の水車、農具の生産が中心となった。これらによって木工のまちとして栄えたものの、〝榎津指物〟は、領民への持ち物制限により自由に買うことができなかったため、注文が入れば生産するという程度にとどまっていたようである。
江戸時代後期(1800年代)の文化・天保年間になると、大川家具の中興の祖といわれる田ノ上嘉作が箱物の技術を習得して帰郷。その技術は息子の儀助、孫の小平次に継承され〝榎津指物〟は次第に生産されるようになった。
明治に入ると、異なる分野の高度な技術を持った職人たちが協力して製造した衣装たんす(いわゆる榎津たんす)が誕生。また、周辺町村の合併で誕生した大川町の町域拡大とともに木工関係者(職人や商人など)が集積したことで、家具の取引が活発化し始めた。
この榎津たんすは、43年に「大川指物協同組合」が結成されると呼び名も〝大川指物〟に変更。併せて木工技術の向上を目的に工業講習所(修業年限2年)が設立されると、桐たんすの産地として有名な埼玉県川越から指導者を迎えた。その結果〝大川指物〟の塗りや使用する金具の技術も一段と向上し、同時期に開通した鉄道(長崎本線)や海運(三池港の開港)による大量輸送が可能となったことで販路は西日本まで拡大した。
太平洋戦争後の昭和20年代には、戦後の復興需要で家具の生産は急増。24年には国から「重要木工業団地」に指定され、今も続く木工まつりの1回目が開催された。
30年には、西日本にとどまっていた販路を全国に拡大する出来事が起こる。大川在住の工業デザイナー河内諒(こうちまこと)の指導・助言で、デザインのシンプル化と機能性を追求した「引手なしたんす」が、西日本物産展で最高賞を受賞。これによりそれまで「安かろう、悪かろう」といわれていた大川家具のイメージが払拭(ふっしょく)され、折しも高度経済成長期と相まって、全国から注文が相次ぐようになった。
こうしたデザイン面の進化に加えて、多くの注文(大量生産)に対応するため、技術面でも新しい工法の開発やオートメーション化が図られた。こうした流れもあり54年には、家具の出荷額は1千億円を超え、日本一の家具の産地になったのである。
しかしながら、平成2年をピークに出荷額は減少傾向が続き、24年には300億円程度とピーク時の4分の1となっている。
大川市のHPで、大川家具の紹介映像を見ることができる
技術の継承が未来への投資
現在も出荷額日本一を誇っているものの、その額の減少傾向が続く大川では危機感が高まっている。
〝大川の木工技術を絶やすわけにはいかない〟。そんな思いから、今、大川では木工技術の継承に向けた取り組みが始まっている。
「25年度より大川市の支援を受けてきた大川インテリア産業振興強化事業をきっかけとして、「今、大川に必要なものは何か」ということを、皆で真剣に議論しました。そこで得た答えは〝大川の木工技術継承が最も必要である〟ということでした。早速、大川商工会議所では実践的な研究として、『大川家具職人塾』を、27年度に開講。対象は木工技術を確実に習得することで家具職人を目指す人、技術習得後大川家具に関わることができる人としました。おかげさまで12人から応募があり、月4回のペースで約1年間、日数にして約40日間、技術の習得のため、実習中心で受講いただきました。技術の習得には時間がかかるため、28年度も本塾を継続実施しています。今年度は5人が受講者(塾生)となり、皆、意欲的に取り組んでいます。本塾の目的が次第に市内の木工事業者に認知されてきたと実感しています」(津村会頭)
一方で、津村会頭の視線は海外にも向けられている。その視線の先は「大メコン圏」諸国の中心に位置するラオスだ。大川の木工技術を同国に移転し、経済発展を支えるという壮大な取り組みが現在進行している。
ラオスは、豊富な森林資源を有していながら、木材の加工技術に乏しいため、低次加工の木材製品しか周辺国に輸出できず、そこから得られる収入は決して多くないのが現状。それを大川の木工技術を移転することにより、付加価値の高い木材製品を生産し輸出を増加させることで、得られる収入を増やすという作戦である。
そのため大川商工会議所は、政府開発援助(ODA)で国際協力機構(JICA)が行う「草の根技術協力事業」の一環として、木材加工技術者の派遣とマーケティング技術を移転することにしている。また、29年3月までの間に計7回、技術者をラオスに派遣して技術指導を行うほか、ラオスの技術者(研修生)を大川に招き、木工技術を学んでもらうことにしている。
「本事業のスタートは、25年からですが、きっかけは24年10月に、大川木材事業協同組合とラオス木材組合の相互交流を進めるための覚書締結式に出席したラオスのソムディ・ドゥアンディ計画投資大臣(当時)など関係者が、当市で開催していた「大川木工まつり」を視察され、その高い木材加工技術に関心を示したことによります。ラオス側のこうした関心・意向をいち早く察知した大川市など関係者が、早々に政府などに働き掛けてくれた結果、当所がJICAから委託を受けました」(津村会頭)
未来を見据えて国内外への木工技術の継承に動き出した大川。この成功こそが家具の産地・大川の名を次世代につないでいくものであり、各方面からの期待が高まっている。
第67回大川木工まつりを開催します
開 催 日:平成28年10月8日(土)~10日(月・祝)
開催場所:大川産業会館、大川中央公園
問合せ先:大川市役所、大川商工会議所
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