木下大サーカス
岡山県岡山市
大陸に渡り曲馬団を旗揚げ
サーカスは、紀元前の古代エジプトや古代ローマにすでにその原型があったとされる。日本でも、8世紀に中国から軽業(かるわざ)や曲芸などを見せる散楽(さんがく)が伝来し、それが大衆芸能として発展し、日本のサーカスの源流となった歴史がある。その流れを受け継ぐ木下大サーカスは、明治35(1902)年に初代の木下唯助が20歳で軽業一座を組織して大陸に渡り、大連で曲馬団を旗揚げしたのが始まりである。
「初代は香川県丸亀市の矢野家の出で、叔父が経営する移動動物園で働いていました。岡山巡業の際、勧進元の木下藤十郎に見込まれて養子に入り、藤十郎が岡山市に創設した劇場の興行を手伝いました。その後、軽業一座を率いて大連に渡り、曲馬団を旗揚げしたのです」と、四代目で社長の木下唯志さんは創業の経緯を説明する。
曲馬団はその後、当時の清の東北部やロシアのハバロフスクなどを巡業していったが、日露戦争が勃発したために帰国を余儀なくされ、地元・岡山市で興行を始めた。また、巡業中のロシアで見た現地のサーカス団による空中ブランコに感銘を受けた初代は、その装置と技を脳裏に刻み込み、帰国後はそれを再現すべく研究を重ね、ついには巡業プログラムの一つに入れることに成功した。
その後はサーカスの巡業を行いながら、活動写真の将来性を見越して岡山市内に映画館を開設していくなど、さまざまな娯楽施設を経営し、その後の木下家の基礎をつくっていった。
戦時中も休みなく公演
昭和8(1933)年、ドイツからハーゲンベック・サーカス団が来日した。このサーカス団はさまざまな動物による曲芸で知られ、初代はそこからも大きな影響を受けることになる。
「公演を見た初代はアシカショーが気に入り、ハーゲンベックのアシカの調教師をうちに入れて、貿易会社からアシカを買い入れて調教を始めました。その後は『東洋のハーゲンベック猛獣大サーカス』と名乗り、いろいろな動物を入れていくようになりました」と唯志さんは言う。
ハーゲンベック・サーカス団の公演が日本中で大ブームを起こし、「曲馬団」が「サーカス」と呼ばれるようになると、木下曲馬団も「木下サーカス団」と名乗るようになる。ロシアの空中ブランコといい、ドイツのアシカショーといい、初代は自分がいいと思ったものは積極的に取り入れ、巡業の目玉にまで育て上げていった。
「戦時中は男性団員が戦争に行ってしまったので、女性だけで空中ブランコやオートバイの曲芸などをやり、365日休みなく公演していたそうです。これはすごいことだと思います」(唯志さん)
戦後は戻ってきた団員たちと道具や衣装を少しずつ集めていき、21(1946)年に復興記念公演を大阪の歌舞伎座で行った。戦後の木下大サーカスを引っ張っていったのは、戦時中は軍の特務機関の大尉として北支(中国北部)に渡り、婿養子として木下家に入った二代目の光三さんである。
兄の遺志を受け継ぐ
「二代目は後を継ぐと、新聞社とタイアップしたり、丸太小屋だった劇場をテント式にしたり、海外公演を行ったり、会社を法人化したりと、次々に改革を進めました」と唯志さんは言う。同時に二代目は大きな興行を手掛け、30(1955)年には東京後楽園アイスパレス、51(1976)年には後楽園球場、56(1981)年には神戸ポートアイランド博覧会での公演を次々と成功に導いていった。
58(1983)年には、光三さんの長男の光宣(みつのり)さんが三代目として社長に就任。サーカスを近代レジャー産業界の一翼に育て上げるため、舞台芸術とサーカス芸術を融合させたエンターテインメント性あふれるものへと発展させた。しかし、病魔に襲われ、光宣さんは道半ばの平成3(1991)年に他界。弟の唯志さんが四代目としてその遺志を継いだ。
「私は当時、半分はサーカスの営業、半分は自分で設立した英会話学校の経営をしていたのですが、兄が倒れたことで家に戻ると、10億円もの借金がありました。税理士からは廃業するよう言われたのですが、逆に絶対に負けないという気持ちが沸き上がってきました」
光宣さんが倒れる前に開催に奔走していた姫路公演を、唯志さんは姫路城の大手前公園で実現させ、この公演は大ヒットを記録。その後の公演も次々とヒットし、10億円の借金は10年ほどで完済した。
「コロナ禍で公演の開催すら大変な状況ですが、それでも夢を抱き続けて、木下大サーカスを素晴らしい会社にしていきたいと思っています」と唯志さんは決意を語る。
2千年以上の歴史があるサーカスは今も発展を続けている。木下大サーカスも将来を見据えて、苦境を乗り越えようとしている。
プロフィール
社名:木下サーカス株式会社(きのしたさーかす)
所在地:岡山県岡山市北区表町3-22-22
電話:086-231-0411
HP:http://www.kinoshita-circus.co.jp/
代表者:木下唯志 代表取締役社長
創業:明治35(1902)年
従業員:110人
※月刊石垣2020年11月号に掲載された記事です。
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