登起波牛肉店
山形県米沢市
雑貨屋から肉屋部門を独立
山形県米沢市を中心とする置賜(おきたま)地方で肥育され、三大和牛の一つとされる米沢牛(諸説あり)は、江戸時代には米沢藩の藩医が滋養源として用いていたという。その米沢牛が広く知られるようになったのは明治8(1875)年のことである。米沢にある藩校の教師として招かれていたイギリス人のチャールズ・ヘンリー・ダラスが、米沢を去る際に米沢牛を生きたまま横浜まで持ち帰り、友人たちに牛肉をふるまったところ、そのおいしさが評判となったことが始まりだとされている。
その後、米沢には牛肉を販売する店が出るようになり、27年に登起波牛肉店が開店した。それ以前からあった店はすでに廃業してしまったため、米沢市に現存する牛肉店としては登起波牛肉店が最も古い店であるという。この店を創業したのが初代の尾﨑庄吉で、現在は五代目店主の仁さんが店を切り盛りしている。
「庄吉はこの地で雑貨屋の山田商店を営む山田家に娘婿として入ると、山田商店の肉屋部門を独立させて、尾﨑家側が登起波を開店しました。波を起こして登る龍という、昇龍昇運の縁起を担いで、この屋号をつけたそうです。当時は夏の間に農耕で使った牛を肉にして食べていたので、肉屋は秋から春までの季節商売でした」と仁さんは言う。
当時の牛の重量は今の半分以下と小さかったため、さばいた肉はほぼその日のうちに売り切っていたという。
交通網の整備で飲食店が繁盛
その後、牛肉の需要が全国的に高まってきたことから米沢の畜産業も発展し、登起波も順調に商いを続けていった。二代目の世禄(せろく)は庄吉の妹の息子で、尾﨑家の名前を残すために登起波を継ぐことになった。この二代目が、今に伝わる登起波の看板商品「登起波漬」を生み出している。
「これはみそに酒粕を混ぜて熟成させたものに米沢牛を漬け込んだもので、大正14(1925)年に昭和天皇が皇太子のころに山形県に来られた際、2樽を献上いたしました。二代目はこの製法を企業秘密にすることなく、県内の業者に公開し、牛肉のみそ漬けは山形県の名物となりました」
三代目の茂一は、高校を卒業すると酒問屋と肉屋に奉公に出て商売を学び、昭和8(1933)年に家に戻り家業を継いだ。戦中戦後は牛肉が配給制となり、厳しい時代が続いたが、それを乗り切り時代が好景気に入ると、商才を発揮して店を繁盛させていった。
「三代目は44年に現在の社屋を建て、1階を店舗、2階を米沢牛専門の飲食店にしました。米沢と福島の間を走る道が整備され、車で米沢に来る観光客が増えていた時期で、店は繁盛していきました」
三代目には息子が4人いたが、後を継ぐはずだった長男が親子げんかで家を離れたことから、市内にある分店で肉屋をやっていた次男の祐二が店を継いだ。
「三代目の祖父は大旦那タイプでしたが、私の父は現場で肉切りを仕切る職人で、良い肉にこだわり、肉を見極める目を持っていました」
数々の困難も乗り越える
現在、五代目店主を務める仁さんは、家業を継ぐべく東京農業大学畜産学科で学び、アルバイト先では本場ドイツ製法によるハム・ソーセージづくりを修業した。大学を卒業して家に戻り、父親に家業を教わりながら働くつもりでいた。しかし、その年の11月に四代目は病気で亡くなり、仁さんはまだ健在だった祖父に教わりながら、22歳で店を引き継いだ。
「父からは半年ほどしか仕事の話を聞くことができませんでしたが、肉の品質の良さにこだわっていた父の遺志を受け継いで、今に至っています。長い間の信用と品質の暖簾(のれん)があるからこそ店はやっていける。これを守っていけば店は続けられると、子どものころから言われていましたから」
仁さんは現場に事務処理にと昼夜問わず働き、必死に店を続けていった。1996年のO157食中毒事件、2001年のBSE(牛海綿状脳症)問題、そして東日本大震災など、長期にわたり売り上げが大きく落ちる時期もあったが、それも乗り越えていった。
「コロナ禍では飲食部門の売り上げが激減しましたが、販売部門は巣ごもり需要もあり下がりませんでした。守りだけでは縮小するだけなので、売り上げを伸ばすための攻めは必要だと思っていて、コロナ後を見据えた新たな展開を進めているところです」
市場に出回る供給量が少ないことから「幻の牛」などとも呼ばれる米沢牛を、仁さんはできるだけ多くの人に食べてもらうよう努力を続けている。
プロフィール
社名:株式会社登起波(ときわ)
所在地:山形県米沢市中央7-2-3
電話:0238-23-4400
HP:https://www.yonezawabeef.co.jp/
代表者:尾﨑 仁 代表取締役
創業:明治27(1894)年
従業員:30人
【米沢商工会議所】
※月刊石垣2021年8月号に掲載された記事です。
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