呉服札を全国の百貨店に納入
新潟県のほぼ中央にあり、錦鯉(ごい)の養殖でも知られる小千谷(おぢや)市で、越後札紙はラベルやタグを中心とした印刷業を営んでいる。創業は明治18(1885)年で、初代・髙野文吉が呉服札(呉服用の値札)の製造を請け負ったことから始まった。小千谷は江戸時代から小千谷縮(ちぢみ)と呼ばれる麻織物の生産が盛んで、百貨店が定期的に仕入れており、地元の問屋を通じて依頼を受けたのがきっかけである。
「髙野文吉が創業者ということになっていますが、実際はその兄が始めたようです。ただ、その兄は商売に向かなかったようで、弟の文吉が商売を続けていきました。それが私の四代前になります」と、越後札紙社長の髙野史郎さんは言う。
その後は全国各地の大手百貨店に呉服札を納入するようになり、小千谷から夜行列車に乗って、品物を届けていた。 「会社の規模も今より大きかったと思います。当時は呉服札に付けるひもを撚(よ)る人も社員でしたから。それだけ呉服札の付加価値が高かったということだと思います。100年ほど前には、ドイツから輸入した印刷機も購入して印刷をしていたほどです」
昭和25(1950)年に株式会社化し、縮の技術で絹糸を使って織る小千谷紬(つむぎ)の生産も始めた。当時は「ガチャマン景気」で、織物を生産するだけで儲(もう)かった。それにより会社はさらに大きくなっていった。 「私が入社した昭和53年は、印刷と織物で4億円ほどの売り上げがありました。今の金額にすると10数億円といったところで、この頃の売上高をいまだに超えたことがありません」
新たな印刷製品に参入
髙野さんは東京の出身で、養子で髙野家に入ってきた。先代が亡くなり後継ぎがいなかったことから、先代の娘と結婚し、入社した。それまでは東京の会社で機械設計のエンジニアをしていた。 「織物は納品から10カ月たたないとお金が入ってこない。当時は金利が7〜8%で、それだと儲けが減ってしまいます。そこで、私が入社した3年後に織物を廃業し、織物部門にいた40数人の従業員には辞めていただきました」と、髙野さんはため息をつく。
織物をやめたその年、新たな印刷機を導入し、ラベル印刷も始めた。剥がして商品に貼れるラベルは、これから需要が大きく伸びるだろうと見越してのことだった。 「当時、従業員は8人ほどで、ラベル印刷機を扱えたのは私ともう一人の従業員だけ。昼間はその人が印刷して私は営業で外に出て、夜は私が工場に戻って印刷していました。最初の月の売り上げは4万円しかありませんでしたが、それから伸びていきました」
始めてから1年で数千万円の売り上げが出るようになったが、全国の百貨店に顧客を持つ呉服札とは違い、ラベル印刷は近隣の顧客が主で、このままでは売り上げの大きな伸びは見込めない。そこで、昭和58年に東京都内に営業所を設けると、髙野さんは東京と小千谷を毎週のように往復する生活を10年続け、受注数を増やしていった。
距離のハンデを生産性で克服
ラベル印刷が軌道に乗ると、髙野さんは前職の機械設計で学んだ生産工学を工場に取り入れていった。これは生産工程を管理する技術で、工程や作業内容を分析して、生産効率を高める方法である。 「うちはお客さまの都合で納期が一番でしたので、生産性の向上が重要でした。従業員もそれを理解してくれて、急な注文でも翌日に納入できるよう、1日2交代制も導入しました。東京の他社よりも距離的にハンデがありますが、それを上回る納期対応で顧客からの信頼を得るようになりました」
また、付加価値の高い製品をつくるために、平成10年には工場内にクリーンルームを設置し、さらに清浄装置を自社開発。そこで製造したラベルを「クリーンルームラベル®」と名付け、半導体などの精密な電子部品を管理するラベルの生産・販売も始めた。
「付加価値の高い印刷物で利益率が高い企業にしたいと長年思っていました。ラベル生産は下請け仕事が多いので、メーカーと直接取引するために、他社が手掛けていない製品をと考え、いろいろな専門家の方々に教えを請い、クリーンルームラベルを開発しました」
髙野さんは毎週のようにさまざまな産業の展示会に足を運んでいる。そこで、今はどの産業が伸びているか、どのような製品が求められているかを探っている。 「これからは医薬関係に力を入れていきます。今のうちに新たな種をまいて、芽が出たころに次の代に会社を渡したいと思っています」 同社はこれからも常にアンテナを張り続け、その時代の産業に合わせたラベルを開発していく。
プロフィール
社名:越後札紙株式会社(えちごふだがみ)
所在地:新潟県小千谷市上ノ山1-2-8
電話:0258-83-2301
代表者:髙野史郎 代表取締役
創業:明治18(1885)年
従業員:63人
【小千谷商工会議所】
※月刊石垣2023年8月号に掲載された記事です。
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