海の幸を食べてもらうために
福島県の西部、江戸時代は会津藩の城下町として栄えた会津若松市に、会津郷土料理を提供する店、渋川問屋はある。創業は明治15(1882)年で、初代・渋川善太郎が海産物問屋を始めた。それを料理店として新たにスタートさせたのが、四代目の渋川惠男(ともお)さんである。 「会津は太平洋側と日本海側の真ん中にあり、冷蔵庫のない時代は新鮮な海産物が手に入らなかった。そこで江戸時代は、北海道から来た北前船が新潟で陸揚げした干物を会津まで川で運んでいました。特に身欠きニシンと棒ダラ、貝柱の干物の三つは、会津の三大乾物として珍重されていました。初代は海の幸を地元の人に食べてもらうため、それらを取り扱う商売を始めたのです」
運んできた干物は蔵で保存し、会津地方の魚屋や料理店、旅館などに販売していた。商売は繁盛して会津一の海産物問屋となり、敷地内に渋川家の6家族と問屋の番頭や住み込みで働く人など50人ほどが暮らす大所帯になった。大正から昭和初期にかけては「東北地方の身欠きニシンの相場は渋川問屋で決まる」といわれるほどの隆興を極めていた。 「会津一帯からお客さんが買い出しに来るのですが、会津は広く、車のない時代だったので、ここで一泊することになる。そのため会津若松は、各地で異なる身欠きニシンの調理法の情報交換の場にもなっていました」
まさに渋川問屋は、会津地方の食文化になくてはならない存在となっていたのである。
古い建物を会津郷土料理店に
冷蔵庫が使われ始める時代になると、会津地方で初めて敷地内に大きな冷蔵倉庫を設置し、干物だけでなく海産物全般を取り扱う市場のような存在になった。 「市場ですから朝が早く、私が子どもの頃などは、両親が働いている姿を見て、朝早く起きる仕事は嫌だなあと思っていました(笑)。私が大学生の頃、昭和40年代の初めに会津の ほかにも海産物問屋が何軒かできると、昭和50年には市内の問屋を全て吸収合併して公設の卸売市場ができ、うちの父もそちらで仕事を始めました。そのため、それまで市場にしていた広い敷地が空いてしまったのです」
残った敷地内には明治、大正時代の建物が残っており、渋川問屋の四代目を継いだ渋川さんはこの歴史ある建物を生かそうと、昭和57年に、宿を併設した会津郷土料理店を新たに始めた。料理の素材はもちろん、問屋時代に扱っていた身欠きニシンや棒ダラ、貝柱などの干物だった。 「あの頃は会津にもアンノン族(ファッション雑誌を持って旅行する女性たち)が多く訪れて、ホテルを女性専用にしたところ、全国から女性客が殺到しました。ところが、ホテルは年中無休の24時間営業なので従業員も私たちも体が持たない。それでホテルは3年ほどでやめ、料理店一本に絞りました」
料理店の方も会津旅行の定番スポットとなり、コロナ禍前まではツアーの観光バスが毎日6、7台は来て、約200人もの観光客が店で食事をするほど繁盛した。
シャッター通りを活性化する
渋川さんは店を経営する一方で、会津若松市ににぎわいを取り戻す活動にも長年取り組んでいる。 「このままでは市の人口は減っていくばかり。そこで、外から人を呼び込んで交流人口を増やすことでにぎわいを創出しようと考えました。ただ、私の力では市全体は無理なので、店がある七日町通りの商店街で、学生時代の友人と3人でまちづくりに取り組みました」
平成6年に「七日町通りまちなみ協議会」を設立すると、市の補助金を活用するなどして通りに残る歴史的な建物を改修し、観光客向けの店をテナントとして入れる活動を行った。この活動により、30年前まではシャッター通りだった商店街が、20年後には年間30万人が訪れる観光スポットになり、今は100万人を目標にしていると渋川さんは言う。 「昔ながらの会津らしさを残していくことが、私の使命だと思っています。それにより会津に来る人が増えれば、その経済効果でまち全体が潤うようになる。商売を考えたまちづくりでなければ、継続できないですから」
まちに多くの人が訪れ繁栄することで、結果として渋川問屋も商売が成り立っていくことになる。 「会津に来た人たちに、明治時代の建物の中で本物の会津郷土料理を提供することが私たちの使命です。その筋を一本通して、あとは時代に合わせた展開にしていけば、店は長続きすると思っています」
店だけでなく、まち全体の発展を考えていくことも、渋川問屋のもう一本の筋といえるだろう
プロフィール
社名 : 有限会社渋川問屋(しぶかわどんや)
所在地 : 福島県会津若松市七日町3-28
電話 : 0242-28-4000
HP :https://shibukawadonya.com
代表者 : 渋川惠男 取締役会長
創業 : 明治15(1882)年
従業員 : 約25人
【会津若松商工会議所】
※月刊石垣2024年3月号に掲載された記事です。
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