外国人客にリネン製品を販売
江戸時代末期の1859(安政6)年の横浜港開港を機に、外国人居留地に隣接する商店街として発展した横浜元町。今も異国情緒漂う老舗やブティックが並ぶ通りに、近沢レース店はある。創業は1901(明治34)年で、初代・近澤平吉さんが元町からほど近い扇町で絹の輸出商「近澤商会」を興したのが始まりである。
「曽祖父は金沢の庄屋の息子で、兄弟の下の方の子だったのでしょう。妻のつると一緒に横浜に出てきました。当時、横浜港から絹やお茶を多く輸出していたので、それで自分も始めたのだと思います。この周辺は、関東大震災と空襲で焼け野原になり、当時の資料や写真が残っていません。曽祖父も震災の時に亡くなりました」と、五代目で代表取締役社長の近澤匡祐(ただすけ)さんは言う。
残された妻のつるさんは、夫を亡くした悲しみを乗り越え、震災から2カ月後には近くの元町通りの商店街にリネン製品の店を開いた。そこでは店頭に麻生地を置き、居留地に住む外国人たちを相手に、テーブルクロスやベッドリネン、ハンカチ、ブラウスなどをオーダーメードで販売していた。
「そこにレースや刺しゅうを入れるようになったのは、外国人のお客さまの要望で、それが評判になり、レースに特化するようになったと聞いています。おそらく当時の日本にレースはほとんどなく、外国人が多いこのまちだからこその商売だったと思います。まちが大きな被害を受けた所に店を出し、外国人の生活に必要なリネンを販売した。そういう意味では、曽祖母には先見の明があったのでしょう」
百貨店への出店で事業を拡大
戦後の1951年には会社組織となったが、朝鮮戦争による駐留軍の部隊再編で横浜を離れる軍人や家族が増えたため、元町通りの商店街は大きな打撃を受けた。逆境の時代に三代目社長の竹雄さんは、59年に商店街の理事長に就任すると、商店街の知名度を上げるため、67年に全国の百貨店と提携しイベントやセールを展開した。
「それにより百貨店とパイプができて直営店を出すようになり、私の父である四代目の弘明が社長になると、店舗を次々に増やしていきました。高度経済成長期の中、テーブルウエアなどのレース商品が返礼ギフトとして重宝されたのです。私が子どもの頃が最盛期で、日本各地の百貨店に60店もの直営店がありました」
現在、社長を務める近澤さんは、銀行に6年勤務した後、2007年に家業に入ると、現場を見て回った。そこで目の当たりにしたのは、自社の危機的な経営状況で、事前に聞いてはいたものの、想像を超える厳しさだった。
「このままだと5年も持たないと思いました。その原因は、百貨店依存と返礼ギフト中心という旧来型モデルが行き詰まっていたこと。それにもかかわらず、各店舗の採算管理や販売戦略の見直しが不十分で、場当たり的な商品投入によりブランドの軸も揺らいでいて、成長戦略が描けない状態でした」
入社2年後、近澤さんは自社の原点である「レース屋」であることに専念し、それ以外の商品は扱わないことに決めた。
オンライン販売に力を入れる
近澤さんは直営店を縮小しながら、テレビショッピングや通販を経て、オンライン販売を強化することで収益構造を転換していった。そんな中、4辺をレースであしらったタオルハンカチを定番商品のラインアップに加えると、安定的な売り上げを伸ばしていった。そして2011年、『サザエさん』とコラボレーションしたレース付きタオルハンカチが大きな注目を集めた。
「これを機に有名キャラクターをモチーフにした企画がくるようになり、それまで近沢レース店を知らなかった人にも知っていただくきっかけになりました。それからは、季節限定の『シーズンタオルハンカチ』を出すようになり、これまでにはないレースのデザインが評判となり、ヒット商品となりました」
コロナ禍では直営店を閉めざるを得ない中、引き続きオンライン販売に力を入れ、レース付きのオリジナルマスクを発売。同社の公式SNSで発信していた発売情報を得るためにフォロワーが急激に増加し、マスク需要が落ち着くと、今度はタオルハンカチの販売量がこれまでになく増えていった。
「オンラインで売れるようになると、今度は元町の本店に多くのお客さまが来てくださるようになりました。これからは再びレースの基本や原点に立ち返り、レースそのものの魅力をアピールしていきたいと考えています」
同社は、レースという一本の軸を磨き続けていく挑戦により、125年の歴史の先に新たなデザインを描こうとしている。
プロフィール
社名 : 株式会社近澤レース店(ちかざわれーすてん)
所在地 : 神奈川県横浜市中区元町3-119
電話 : 045-661-0851
HP : https://chikazawa-lace.co.jp
代表者 : 近澤匡祐 代表取締役社長
創業 : 1901(明治34)年
従業員 : 約120人
【横浜商工会議所】
※月刊石垣2026年4月号に掲載された記事です。
