薬草を江戸に運んで財を成す
市内に約4千棟もの蔵があることから「蔵のまち」として知られる福島県喜多方市。その商店街に、かぶき薬店はある。初代・冠木文治右衛門(かぶきぶんじうえもん)が1716(享保元)年に創業し、のちに藩御用達の会津三薬種問屋の一つとなった。
「初代の本家が喜多方の呉服商で、そこから分家して薬種問屋の『冠木薬舗』を始めました。当初は、近隣の山や農村の人たちが持ってきた薬草を加工し、江戸に運んでいました。昔は『薬九層倍(くすりくそうばい)』といって、薬の仕入れ値は売値の1割ほどで、江戸に持っていくと相当な利益になったのです。それで薬種問屋は財を成し、土地を買ったり蔵を建てたりしていました」と、社長の阿部浩一さんは言う。
喜多方に蔵が多いのには理由がある。1880(明治13)年に市街地で大火が発生し、建物の大半が焼失した。その中で燃えずに残ったのが蔵だった。以来、住民たちがこぞって蔵を建てるようになったのだ。「喜多方の人は、40歳になったら蔵の一つも建てられなければ一人前じゃないとされていたそうです」(阿部さん)
冠木薬舗も、明治初期に五代目が道具蔵を、六代目が店蔵を建て、八代目が明治後期に堀蔵と厠(かわや)蔵、1917(大正6)年に座敷蔵を建てている。特に厠蔵は喜多方でも珍しく、その名の通り外便所が蔵造りとなっている。
「厠蔵は台所の正面にあり、便所にいても常にかまどの火が見える造りになっていました。それだけ火事への警戒が徹底されていたんです」と、当時の防災意識について阿部さんは説明する。
“ぼっこれ”の血で強固に
江戸時代、冠木薬舗は薬種問屋として薬の卸を行いながら、薬の小売りも手掛けていた。明治に入ると、ダイナマイトや煙火(花火類)、銃砲火薬などの火薬類を扱うようになった。
「世の中の流れが変わるのに合わせて商売を広げてきました。火薬類を扱うようになったのは、同じ化学薬品という理由からです。その後、昭和30年代には化粧品も扱うようになりました。私たち夫婦が結婚した1986(昭和61)年当時は、義父母と従業員6人で店を切り盛りしていて、お客さんがひっきりなしに来ていました」
冠木家は、先代の十一代目までは初代の名を襲名し、文治右衛門と文次右衛門を交互に名乗ってきた。阿部さんは、店主としては十二代目に当たるが、先代の娘・留美子さんと結婚して店に入っており、婿入りも襲名もしていない。
「結婚当初は会社勤めをしていて、店を継ぐつもりはありませんでした。しかし、店の番頭の退職と義父の病気が重なり、今のうちに店のことを引き継いだ方がいいと考え、会社を辞めて店に入りました。冠木家は、医師になったり東大を出たりと優秀な人が多い家系です。でも、たまには私のような“ぼっこれ”の血を入れないと、ひ弱な人ばかりになって家は続きません。実際、先代までの十一代のうち、婿が3人います。先代が私に娘との結婚を許してくれたのも、以前の3人の婿と同じく、隣町の会津坂下(ばんげ)町の出身だから。ちなみにぼっこれとは、ポンコツという意味です(笑)」
次の一手を考える
かつては、薬と化粧品の販売だけで商売が成り立っていたが、時代の変化とともに収益は厳しくなっていった。そこで次の一手として、通りを挟んで薬店の正面にある蔵造りの建物で、2000年にそばや田楽を出す飲食店を始めた。その後、別の場所で新聞販売店も立ち上げた。
「しかし、店が三つになると、なかなか目が行き届かなくなりました。そこで、赤字が続いていた飲食店を閉じ、その場所に新聞販売店を移しました。ところが、隣家から出火した火事で建物が燃えてしまいました。現在、新聞販売店は別の場所で営業しています」
今は「次の一手を考える余裕もない」と阿部さんは苦笑する。新聞販売店は人手不足で忙しく、自ら配達に出ることが多いからだ。一方、薬店を取り巻く環境も厳しい。ドラッグストア・チェーンの進出に押され、こうした路面の薬店は減り、喜多方市内でもわずか2店舗を残すのみとなった。
「それでも“まちの薬屋”として、この店をなくしてはいけないという思いは強く、たとえ最後の1店になっても続けていきたい。創業から300年以上の歴史がある店を、自分たちの代でやめるわけにもいきません。もっとも、将来この店をどうしていくかは、息子と娘の2人で話し合って決めればいいと思っています」
“蔵のまち”喜多方で300余年。時代の変化に向き合いながら、同社は、これからも地域に根差した商いを続けていく。
プロフィール
社名 : 有限会社冠木薬店(かぶきやくてん)
所在地 : 福島県喜多方市字三丁目4800
電話 : 0241-22-0053
代表者 : 阿部浩一 代表取締役
創業 : 1716(享保元)年
【会津喜多方商工会議所】
※月刊石垣2026年5月号に掲載された記事です。
