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100年経営に極意あり!長寿企業の秘密 次世代が身の丈を知るために失敗が許されるだけの体力を付ける

ヒロセ合金

愛知県名古屋市

溶けた鉄を型に流し込む注湯作業。作業者の熟練度が要求される

環境変化に応じて拠点を変更

名古屋にある鋳造・機械加工企業のヒロセ合金は、江戸開府と同じ慶長8(1603)年、現在の三重県桑名市で創業した。初代・廣瀨彦三郎氏が桑名藩主の本多忠勝公に鋳物師として呼ばれたのが始まりで、以来412年にわたって歴史を受け継いできた。しかし実際には、そのはるか前から家は続いていたという。21代目社長の廣瀨奛さんはこう説明する。

「私の父親である先代から聞いた話では、桑名にあった家が戦時中に空襲で焼失する前、蔵には楠木正成公からの感状(戦功があった者に対して主君が与える表彰状)があったそうです。楠木正成公といえば、14世紀前半の鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将。想像するに、当家は大和朝廷が百済から鋳物師を呼び寄せて河内に住まわせ、そこから全国へと送り込んでいった、そういう経緯がある家の末裔であろうと思います。ただ、文書が空襲で燃えてしまったものですから、証拠となるものは何も残っていません」

推測の通りだとすると1300年近い歴史があり、朝廷の庇護を受けて代々鋳物をつくり続けてきたことになる。かつては『鍋屋』という屋号で呼ばれていたことから、江戸時代は鍋や釜といった生活用品、そして朝廷からの依頼などで大砲などもつくっていたのではないかと廣瀨さんは言う。

廣瀬家は江戸時代の265年間、天下泰平の世で家業の鋳物を脈々と続けてきたが、明治維新のときに大きな変化が起こる。それまで鋳物師は朝廷の許可が必要だったが、許可が不要になり、誰でもできるようになったのだ。

「職人たちが次々に独立していき、桑名では競争が激しくなりました。そこで明治末期、工場を名古屋に移しました。名古屋で、工業用鋳物の需要が多かったからということもあったと思います」

家業を約300年続けてきた創業の地にしがみつくことなく、危機とあらば新たな場所へ移る。大胆な改革が決断できるのも、老舗としてこれまで生き残ってこられた理由の一つなのだろう。だが、試練は終わらなかった。すぐに戦争というさらに大きな変化の波が訪れたのだ。

「戦前は多くの職人を抱えていましたが、その職人を召集で取られ、先代である父も取られてしまいました。そのため、工場を一時的に閉めざるを得ませんでした。戦後、父は戻ってきましたが、桑名の家も名古屋の工場も空襲で焼けてしまっており、残っていたのは工場を再開する意欲だけ。そこで桑名の土地は売り払い、拠点を完全に名古屋に移して工場を再開したのです」

ふさわしい人材に継がせる

廣瀨さんが社長職を継いだのは昭和59年、37歳のときだった。

「最初はもうかればそれでいい、と考えていました。でも勉強していくうちに、徐々に考えが変わっていった。経営についての勉強は名古屋商工会議所が主催する若鯱会という若手経営者の異業種交流会に入ったことがとても役立ちました」

現在、鋳物の需要は減少している。そんななか、生き残っていくために、ヒロセ合金は〝大量生産〟ではなく〝多品種微量生産〟にシフトしているという。

「いかに量産品と同程度のコストでつくっていけるかがわれわれが生き残っていくカギです。他業者との差別化を図り、お客さんに喜んでもらうにはどうしたらいいかを考えた結果です」

そして、廣瀨さんは自社が創業から412年の長きにわたり継続できた理由を「後継者選び」と「運」と分析する。廣瀬家は、血縁にこだわらず能力を重視して後継者を選んできたのだという。

「ふさわしい人材が息子の中にいなければ娘婿を取って継がせた。後継者選びでは昔の人の方が厳しかったのです。血縁にこだわらず、企業にあるべき人材に継がせていたのですから。あとは運も必要です。桑名から名古屋に出てきたら、そこが日本で最高レベルのものづくりの場所になった。これは運がよかったのでしょう」

ヒロセ合金の次の後継者は、すでに廣瀨さんの甥に決まっている。現在は、廣瀨さんと友人が先生となってよい経営者になるための勉強会を2カ月に1回開いているという。

「私が先代から引き継いだことは、自分の身の丈に合った会社にするということ。でも、ある程度の失敗をしないと自分の身の丈など分からない。誰でも1回2回は失敗する。重要なのは、失敗してもすぐにやり直せるかどうか。だから今の私に課せられた任務は、次の代が1回や2回失敗しても問題ないだけの体力のある会社にすることだと思っています」

プロフィール

社名:ヒロセ合金株式会社

所在地:名古屋市熱田区金山町1-8-12

電話:052-671-0928

代表者:廣瀨奛 代表取締役

創業:慶長8(1603)年

従業員:38人(パート含む)

※月刊石垣2015年10月号に掲載された記事です。

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