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100年経営に極意あり!長寿企業の秘密 和菓子に込められた高岡の商人魂

大野屋

富山県高岡市

戦火を乗り越えた土蔵づくりのまち

高岡は、慶長14(1609)年、加賀前田家の二代藩主・前田利長によって開かれた城下町だ。第二次世界大戦の空襲を免れたため、古いまち並みが今でも残っている。

「高岡城は一国一城令により、できてからわずか数年で廃城になりました。それ以降、高岡は商人のまちとして栄えました。だから、高岡商人には自分たちの力がまちを支えてきたという誇りがあるのです」

北国街道に沿った山町筋と呼ばれる通りには、土蔵造りの商家が立ち並ぶ。明治33(1900)年に発生した、いわゆる「高岡大火」により、市街地の約6割が焼き尽くされた。江戸時代から続く商人のまち・山町筋も例外ではなく、それまでのまち並みは跡形も無くなってしまった。その教訓から、防火に主眼を置いた土蔵づくりのまち並みが完成したのだ。

その山町筋の一角に「大野屋」は店を構えている。初代の大門屋吉四郎が、醸造業から菓子屋に転業し開いたとされており、創業は天保9(1838)年までさかのぼる。現在の当主・大野隆一さんは、九代目に当たる。初代の吉四郎がなぜ和菓子業を始めたのかは、(大火のため)資料もなく、はっきりとは分からないという。「初代の吉四郎のことを祖父などは命日の関係から『9月28日のおじいさん』と呼び、吉四郎は中興の祖だと教えてくれました」。

万葉集にちなんだ銘菓誕生

明治16(1941)年、三代目・重吉の名で出された略歴には、菓子や砂糖のほかに「ろうそく」や「稚児装束」の文字がある。「この辺りは、浄土真宗の盛んな地で、行事の折には稚児行列などが行われています。そのときは、お菓子のほかに、貸衣装やろうそく、お茶なども扱っていたようです。私が子どものころもまだ、古い稚児装束が残っていました」。

高岡を代表する銘菓に大野屋で扱う「とこなつ」という和菓子がある。白小豆を求肥でくるみ、砂糖の一種である和三盆を表面にまぶした一口大のもので、上品な姿と味をしている。これが売り出されたのは、明治の終わりごろ、五代目・重吉のときだったのではないかと、隆一さんは説明する。

「和菓子といえば、大ぶりなものが多かった時代に、こんな小さなものを出したのは斬新だったと思います。白小豆は備中産、和三盆は四国のものと、材料は今も変わっていません。特に白小豆は、当時でも珍しかったはず。関西方面に行き来する商人から、情報を得、菓子を職人につくらせたのだと思います。さまざまな情報から新しいものをつくり出す。まさに、高岡商人の真骨頂ではないでしょうか」

商品名の「とこなつ」は、万葉集にある大伴家持の歌「立山に降りおける雪を常夏に見れども飽かず神からなし」にちなんで付けられた。また、「とこなつ」という古名を持つカワラナデシコの可憐さをも呼び起こしてくれる。

「港がある伏木地区は、奈良時代に大伴家持が国司として赴任していたところです。彼は、そこで数々の歌を詠み、万葉集に残しています。これが高岡が万葉の里と呼ばれるゆえんです」

伝統を守りながら時代に合わせてアレンジ

「守るべきものは守るが、新しいものを取り入れることにはためらわない」。つまり進取の気性に富んでいるのが高岡商人の性格だと、大野さんは語ってくれた。

「毎年、5月1日に行われる高岡御車山祭があります。そこでは、豪華に飾られた山車が曳き回されます。これは、国の重要有形・無形民俗文化財に指定されています。それを文化庁の人が見に来て、山車に使う小槌や車輪などの道具が新しいことに驚いていたそうです。つまり、守るべき形式などは守るけれど、変えるべき道具類などはどんどん新しくしていく。こんなところにも高岡商人の性格が出ているのではないでしょうか」

大野屋にとっての最大の危機は、やはり第二次世界大戦だった。砂糖が統制品になり、和菓子をつくって売るということがかなわなくなったためだ。戦後、店舗はオートバイ屋に貸し、先代の隆さんは富山に務めに出ていたという。やがて職人たちが戦地から戻り、本格的に菓子業を再開したのは、昭和25年ごろだったと、隆一さんは記憶をたどる。29年には、富山に出店し、洋菓子も扱うようになったという。

代々続く老舗の跡取り。だが、継承することに迷いがなかったわけではない。「大学を卒業して、東京の和菓子屋に務める予定でした。けれど、急に心変わりして、先輩がやっていた特許事務所に職を求めたのです。そこで、弁理士の資格も取り、将来独立することも頭にはありました」。

だが、帰郷するたびに老いていく両親を目の当たりにし、5年もすると高岡に戻ろうと思うようになったという。そして、52年の春、大野さんは高岡に戻った。

「菓子屋のことを何も知らないので、最初のうちは勉強です。やがて、自分で商品のパッケージを見直したりするようになり、新商品も開発しました。あんをパイ生地で包んだもので、『吟遊パイ』と名付け、今でも売っています」

品質は落とさず、昔からあるものを守りながら、時代に合わせたアレンジを加えていく。まさに、高岡商人の面目躍如といったところだ。

平成17年、先代が亡くなり、隆一さんは社長を継いだ。24年、大野屋に「高岡ラムネ」という名の新しい顔が加わった。和菓子をつくるときの木型を活用して、新しくできた商品だ。職人が一つひとつ手作業で仕上げ、細部まで美しい飾りが施された、食べるのが惜しくなるようなラムネだ。現在、1シーズンに4種類が店頭を飾っている。実は、これを考案し、商品化したのは隆一さんの長女・悠さんだ。

伝統を引き継ぎ、新しい味を生み出す――高岡商人の精神は、次代を担う悠さんにもしっかりと受け継がれている。

プロフィール

社名:株式会社 大野屋

所在地:富山県高岡市木舟町12

電話:0766-25-0215

代表者:大野隆一 代表取締役社長(九代目)

創 業:天保9(1838)年

従業員:19人

※月刊石垣2014年3月号に掲載された記事です。

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