過去は取り戻せるだろうか。直前のことなら、ことと次第によってはやり直しが効く。だが60年前に病院で生まれた直後、別の新生児と取り違えられた東京の男性の場合は取り返しがつかない。本来歩めたはずの人生とは別の人生を歩くことを余儀なくされたとして、この男性が病院に対して起こした損害賠償訴訟で問題が明らかになったのは昨年11月。ふたつの人生が入れ替わった。それを本人たちが知ったのは3年前である。
▼豊かとは言えない過去を振り返り、あったかもしれない別の人生を思えば、普通はやり場のない怒りにかられよう。しかし会見した男性は、すでに他界していた実の両親に会えなかった悔しさをにじませながらも、苦労して育ててくれた母親を思いやり、血のつながらない兄たちに感謝の言葉を述べたのである。たとえようもない事件だったが、その言葉に救われた人も多かろう。裁判で、取り違えはあり得ないという病院側の主張を退けたのはDNA型鑑定結果だった。
▼子どもは生命の設計図DNAを両親から一つずつ必ず受け継ぐ。塩基配列の型を調べれば生物学上の親子かどうか分かる。子に夫との血縁関係がないことの確認を求めた裁判で、DNA型鑑定結果により大阪高裁が父子関係を取り消す判決を出したのも昨秋だった。フランスでは、第三者の精子提供で生まれた子供たちによる「実の父親」の情報開示を求める訴訟が相次いでいるという。
▼いまは、どこでも簡単にDNA型鑑定ができるようになった。精度も一段と向上した。鑑定を求める人の事情はさまざまだが、思わぬ結果を受け入れられるかどうか、覚悟が必要なのは言うまでもない。血縁とは何か、家族とは何か。重いテーマである。
(文章ラボ主宰・宇津井輝史)
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